トップが2人同時に去る発表を聞くと、まず疑うべきは「本当に辞めたのか」だ。2026年8月5日、Google DeepMindでCEOのDemis Hassabis氏とチーフサイエンティストのJeff Dean氏がそろって役職を退いた。だが両者の実際の行き先を見ると、退社という言葉が指す中身は一様ではない。
Hassabis氏はGoogleの外へは出ず、むしろ親会社Alphabetの肩書きを新たに得た。Dean氏は会社を去ったが、Alphabet自身が出資する新会社の共同創業者になった。この2つの動きを重ねると見えてくるのは、人材流出という一語が覆い隠す、称号の再配置と人材のつなぎ止め方の転換だ。
DeepMind会長兼Alphabet科学責任者への異動と、Dean氏らの新会社設立
Googleの公式ブログによれば、Hassabis氏はGoogle DeepMindのCEO職を退き、DeepMind会長とAlphabet最高科学責任者を兼務する。ロンドンの本拠地を維持したままSundar Pichai氏とAGI(汎用人工知能)戦略で協働を続け、創薬子会社Isomorphic Labsにも一段と注力するという。CEOという実務トップの座を離れる一方、Alphabet全体を対象にした肩書きを新たに手にした格好だ。
Dean氏はGoogleに27年在籍し、2023年からはGoogleとGoogle DeepMindのチーフサイエンティストを務めた後に退社し、Ghemawat氏、Vinyals氏、Le氏とともに新会社Discovery Loopを共同設立した。公益企業(利益と社会的便益の両立を定款に明記した企業形態)として、機械学習の実験や科学研究の自動化を目指すという。
Google DeepMindの上級副社長(SVP)には、前DeepMind最高技術責任者のKoray Kavukcuoglu氏が就く。Pichai氏の直属となり、Gemini本体の開発に加えフロンティアAI研究、Geminiアプリ・開発者チームまでを統括する。Pichai氏はKavukcuoglu氏について、DeepMindのディープラーニングチームを築き、音声合成技術WaveNetや強化学習アルゴリズムDQNの開発を主導した人物だと評価している。
Discovery Loopが掲げる「機械学習の実験と科学研究の自動化」は、研究者が仮説を立て、実験条件を設計し、結果を検証するという反復作業そのものをソフトウェアに肩代わりさせる、具体的な業務プロセスを指す。Dean氏がGoogle社内で長年手がけてきた大規模計算基盤の知見を、Google以外の場で応用する試みだと位置づけられる。Kavukcuoglu氏の統括対象がGemini本体の開発を含む製品化に近い領域である一方、Dean氏の新会社は研究プロセスそのものを扱う。両者の役割は競合関係というより、住み分けに近い。
名前は同じでも中身が違う「チーフサイエンティスト」
Dean氏が退いた「チーフサイエンティスト」はGoogleとDeepMindという事業部門レベルの役職だった。一方でHassabis氏が新たに就いた「最高科学責任者」は、Google・Waymo・Verilyなどを傘下に持つ持株会社Alphabetレベルの役職であり、対象範囲がそもそも異なる。同じ日本語訳、同じ英語タイトルでも、指す組織の階層が一段違う。
日々の実務指揮をSVPのKavukcuoglu氏に委ねた点だけを見れば、Hassabis氏の異動は名誉職への祭り上げに映る。だが同氏はPichai氏とのAGI戦略協働を続け、Isomorphic Labsという成長分野の指揮も維持しており、対象組織がGoogle部門からAlphabet全体へ広がった以上、肩書きの適用範囲そのものは縮小していない。実務のハンドルはKavukcuoglu氏に渡し、戦略と科学面の影響力はAlphabet全体に広げる役割分担だ。
Alphabetという持株会社には、自動運転のWaymoや医療研究のVerilyなど、Google本体以外の事業も含まれる。最高科学責任者という肩書きがAlphabetレベルで新設された以上、Hassabis氏の関与範囲は理屈のうえでこれらの事業にも及びうる。DeepMindのCEOという1部門の実務を離れ、AI研究の知見をAlphabet傘下の複数事業へ横断的に及ぼす立場に回った、という見方も成り立つ。
6月の完全移籍型流出と、8月の「緩やかな独立」モデル
Discovery LoopにはRadical VenturesとKhosla Venturesが主導投資し、Kleiner Perkins・Lightspeed・Doerr Capitalに加えAlphabet自身も資金面で参加する。Alphabetはさらにクラウドパートナーとして関わり続ける立場になる。Googleを辞めた研究者が立ち上げた会社に、辞めた先の親会社がなお資金と技術基盤の両面で関与する構図だ。
2026年6月に起きた離脱はこれと形が異なる。Noam Shazeer氏はOpenAIへ、John Jumper氏はAnthropicへ移り、いずれも既存の競合他社に加わる完全移籍だった。両氏が新たに立ち上げた会社にAlphabetが出資するような仕組みは伴わず、Alphabet株は当時5%を超えて下落した。
なお、DeepMindの元研究者David Silver氏も大規模言語モデルや人間の実演データに頼らない学習手法で次世代AIを目指す新会社「Ineffable Intelligence」を設立している。同社は2026年4月27日、Sequoia CapitalとLightspeed Venture Partnersが主導する11億ドル(1ドル157.6円換算で約1734億円、2026年8月5日時点のFRB公表レート)のシード資金調達を発表しており、Index VenturesやNvidiaに加えてGoogleも出資者として参加した。同社は同年6月16日にはGoogle Cloudを優先クラウドパートナーに選ぶ提携も発表しており、出資とクラウド提携を組み合わせる型はDiscovery Loopが最初ではなく、6月の時点ですでに確立されていたことになる。Discovery Loopで新しいのは、共同創業者としてGoogleに27年在籍した幹部その人にまで同じ型を適用した点だ。
Alphabetは創設時の出資者としての立場を通じてDiscovery Loopの成長から利益を得られる可能性がある。すでに合意されているクラウドパートナーとしての関わりを通じて、Discovery Loopの研究基盤との技術的なつながりも生まれる。契約の詳細な条件は公表されていないが、Dean氏らにとってもGoogleが持つ計算資源へのアクセスを完全に絶たれるより、提携関係を保つほうが立ち上げ期の負担は小さい。双方に利害が残ることが、この「緩やかな独立」を資本関係に裏打ちされた関係にしている。
発表当日の4%安、6月の5%超安との比較
Alphabet株はHassabis氏とDean氏の異動発表当日、Yahoo Financeの集計でおよそ4%下落した。6月の移籍時(Shazeer氏がOpenAIへ、Jumper氏がAnthropicへ)も株価は5%を超えて下落しており、約6週間の間にDeepMind発の人材流出が2度、株価を動かした計算になる。
背景にはコーディング性能でOpenAIとAnthropicに後れを取っているという評価がある。Pichai氏は7月の決算説明会で、フロンティア競争を戦うためにより大規模な基盤モデル「Gemini 4」が必要だと明言しており、後継の「Gemini 3.5 Pro」は開発が遅れているとされる。blog.googleに掲載された公式発表は、Hassabis氏の異動を「AGIへの集中」という前向きな理由でのみ説明し、この開発遅延にも6月の人材流出にも言及していない。
Hassabis氏はタンパク質構造予測AI「AlphaFold」の開発により2024年のノーベル化学賞を受賞している。日本経済新聞をはじめとする既報の多くは、この体制交代を「ノーベル賞受賞者の交代」という人事の枠組みで伝えている。だが約6週間で2度の株価下落を招いた背景には、コーディング性能の劣勢とGemini 3.5 Proの遅延という要因がある。人事の事実だけを追うと、この競争環境は見落とされやすい。
Alphabetの人材戦略転換とAI競争の次のステージ
Hassabis氏はGoogle部門からAlphabet全体へと肩書きの対象範囲を広げ、Dean氏は退社しながらもAlphabetの出資先という形で関係を保った。競合へ完全移籍した6月型と、出資と提携でつなぎ止める8月型という、性質の異なる2つの人材流出処理が、半年足らずの間に同じ会社の中で併存している。
Kavukcuoglu氏がPichai氏の直属としてGemini 4の開発を予定どおり進められるか、Discovery Loopとのクラウドパートナー関係がAlphabetに具体的な技術的還元をもたらすかは、いずれも今後の四半期決算や製品発表で検証できる。DeepMindを離れる研究者が今後も出るとすれば、Alphabetが今回築いた「緩やかな独立」という受け皿を再び使うかどうかが、人材戦略の本気度を測る次の指標になる。
OpenAIやAnthropicへの人材流出が今後も止まる保証はなく、Discovery Loopのような資本提携型の受け皿を用意できるかどうかが、Alphabetが次に主要研究者を失う場面で問われることになる。Discovery Loopが軌道に乗り、クラウド提携の具体的な条件が公表されれば、この人材保持モデルはAlphabet以外の大手テック企業にも参照される先例になりうる。



