1977年、Fred SangerがバクテリオファージΦX174の全塩基配列を決定した。5,386ヌクレオチドからなるこの環状DNAは、人類が初めて読み切ったDNAゲノムだった。2003年、Craig Venterの研究チームが同じΦX174のゲノムを化学合成で再現し、14日間で機能性ウイルス粒子の作出に成功した。ゲノムを「書く」時代の幕開けである。

それから20余年。2025年9月、スタンフォード大学化学工学科のBrian Hie准教授とArc Instituteの共同研究チームは、この歴史的なウイルスを再び舞台に選んだ。今度は「書く」のではない。AIに「設計」させるのだ。

彼らの成果は2026年、『Science』誌に掲載された(DOI: 10.1126/science.aec2657)。論文の筆頭著者Samuel Kingらは、AIが生成したゲノム配列から16個の機能性バクテリオファージを作り出し、その一部が天然のΦX174を上回る殺菌能力を持つことを示した。AIが設計したゲノムから機能する生物学的実体が生まれた、世界初の報告である。

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タンパク質設計の成功が残した「次の壁」

AIと生物学の融合は、すでに一度、大きな節目を迎えている。2024年のノーベル化学賞は、タンパク質構造予測のAlphaFoldを開発したDeepMindのDemis HassabisとJohn Jumper、そしてタンパク質設計のRFdiffusionを生んだDavid Bakerに授与された。AIがタンパク質の折りたたみを解き、ゼロから新しいタンパク質を設計できることは、この授賞が示す通り、もはや学術的合意といってよい。

しかし、タンパク質はゲノムの一部にすぎない。生物の機能は単一の遺伝子産物ではなく、複数の遺伝子が織りなす相互作用、調節配列、複製起点、パッケージングシグナルといった要素の総体として生まれる。タンパク質を一つ設計することと、それらを正しく協調させるゲノム全体を設計することの間には、質的な隔たりがある。

DNA言語モデルの分野では、この隔たりが未踏のまま残されていた。モデルが生成した配列が、細胞の中で実際に機能するかどうか。誰も実験で確かめたことがなかった。

Evo 2という「9.3兆文字の読者」

Hie研究室が開発したEvo 2は、2025年2月にプレプリントが公開され、後に『Nature』誌に掲載されたDNA基盤モデルである。40億パラメータを持ち、細菌、古細菌、真核生物、ファージを含む全生命ドメインの9.3兆ヌクレオチドで学習した。コンテキストウィンドウは100万塩基対に達する。これはヒトゲノム全体の約3分の1を一度に「読める」長さに相当する。

ただし、そのままではΦX174のような特定のファージを設計できない。ベースモデルは200万以上のファージゲノムで学習しているものの、ΦX174に似た配列を制御的に生成する能力は足りなかった。研究チームはここで教師ありファインチューニングを施した。Microviridae科の14,466配列(99%同一性でクラスタリングして冗長性を排除)を追加学習させ、ΦX174様の配列をプロンプトで指示すると、それに近いが同一ではない配列を生成できるようにした。

この微調整が、模倣と設計の境界を定める。生成された配列が野生型と近すぎれば新規性がない。遠すぎれば機能しない。プロンプトの設計とサンプリングパラメータの調整で、この狭い帯域を狙った。

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285通りの設計、16個の生存者

生成された候補ゲノムは、まずバイオインフォマティクスのフィルタで篩にかけられる。遺伝子配置の妥当性、宿主特異性を決定するスパイクタンパク質の保存、進化的多様性の確保。Hieは「モデルはまだハルシネーションを起こす」と認めるが、生成された配列が「バイオインフォマティクスツールの第一関門を欺いた」段階で、手応えを感じたという。

実験段階の手順は、原理的には単純だ。AIが出力したテキストファイル上の塩基配列を、商用のDNA合成企業に発注する。届いた直鎖DNAをGibson assemblyで環状化し、大腸菌C株にヒートショックで導入する。細胞内でタンパク質が翻訳され、正しく自己集合すれば、ファージ粒子が完成する。完成したファージは、自分を組み立ててくれた宿主菌を溶菌して殺す。

判定基準は明快だ。培養液が濁っていれば菌が生きている(ファージは機能していない)。透明なら菌が死んでいる(ファージが機能している)。96ウェルプレートで285通りの設計を並行テストし、OD600の低下を2〜3時間以内に観測した。

結果、16個のファージが生存し、配列検証を経て増殖可能と確認された。成功率は約5.6%。低い数字に見えるかもしれないが、これはAIが初めて挑んだゲノムスケール設計の実験成績としては、十分に従来の常識を超える。

項目 従来のファージ療法開発 本研究(AI生成設計)
ファージの入手源 自然環境からの探索・単離 AIモデルによるde novo生成
耐性菌への対応 新たな自然ファージの探索、または実験室進化 多様なカクテルの設計生成、1〜5継代で耐性克服
ゲノムの新規性 自然界に存在する変異の範囲内 67〜392の新規変異、13ゲノムは自然界に存在しない変異を含む
設計から検証までのスループット 個別対応 96ウェルプレートで285設計を並行スクリーニング

天然を超えるファージ、自然界にない変異

16個の機能性ファージは、いずれも天然のΦX174とは異なる配列を持っていた。最も近い天然ゲノムとの比較で、67〜392個の新規変異をharboringしている。最も変異の多いEvo-Φ2147は392個の変異を持ち、ファージNC51との平均ヌクレオチド同一性は93.0%。一部の分類学的閾値では、これは新種に相当する。

13個のゲノムには、既知の天然配列のどこにも見つかっていない変異が含まれていた。AIは、自然進化がサンプリングしていない配列空間から、機能する解を引き出したことになる。

複数のファージがΦX174との増殖競争で優位を示し、溶菌速度も上回った。特に注目に値するのがEvo-Φ36だ。このファージは、ΦX174とは系統的に遠いファージG4由来のDNAパッケージングタンパク質Jを取り込んでいる。G4のJタンパク質は25アミノ酸で、ΦX174の38アミノ酸より短い。過去の合理的設計では、この置換は機能しなかった。クライオ電子顕微鏡解析で、短いJタンパク質がキャプシド内で異なる配向を取り、補償的な変異の組み合わせによって安定化していることが明らかになった。AIが、複数の変異を協調的に配置する能力を持つことの証拠である。

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耐性菌を「カクテル」で制圧する

ファージ療法の最大の課題は、細菌がファージに対する耐性を獲得することだ。研究チームは、ΦX174の受容体であるリポ多糖を修飾するwaaオペロンに変異を持つ3系統の耐性大腸菌を作出した。ΦX174単独では、これら3系統のいずれにも感染できなかった。

AI生成ファージのカクテルを投与すると、すべての耐性株で1〜5継代以内に溶菌が回復した。配列解析で、成功したファージは2〜3種類のAI設計由来の遺伝要素を組換えで組み合わせたモザイクゲノムであることがわかった。変異は細菌受容体と相互作用する表面露出領域に集中していた。多様な設計集団が、細菌にとって同時回避が困難な複数の攻撃経路を提供したのである。

抗生物質耐性は、2025年から2050年にかけて世界で3,900万人以上の直接死を引き起こすとLancetに2024年掲載のGRAMプロジェクトが予測している。ファージ療法はこの危機に対する有力な対抗手段の一つだが、従来は「自然界に適切なファージが存在するか」という運に依存していた。AIによる注文設計は、この依存を断つ可能性がある。

開かれたモデルと閉じられない問い

Evo 2は、モデルパラメータ、学習コード、推論コード、学習データセットOpenGenome2のすべてが公開されている。Arc InstituteとNvidiaが共同で発表した「生物学最大の公開AIモデル」である。

このオープン性が、バイオセキュリティの議論を呼んでいる。2025年9月、Washington PostにTal Feldman(Yale Law School)とJonathan Feldman(Georgia Institute of Technology)が寄稿し、「AIが機能するウイルスを作れる世界に、我々はまったく準備ができていない(We're nowhere near ready for a world in which artificial intelligence can create a working virus)」と警鐘を鳴らした。スタンフォードチームの安全対策を評価しつつも、「ヒト病原体の公開データを使って独自のモデルを構築することを、誰が止められるのか」と問う。

Hie自身もこの懸念を否定しない。「これらのモデルは非常に速く進化している。我々の研究は安全に配慮したが、モデルが普及すれば、他のグループが同じ配慮をするとは限らない」。一方で、DNA合成からウイルス作出までの工程は「説明するほど簡単ではなく、実際には自明でない(non-trivial)」とも述べる。

Waikato大学のSimon Jacksonは、この技術がファージ療法の探索コストを下げる可能性を認めつつ、「自然から適切なファージを見つけるのは時に極めて困難だ。生成AIはこの自然探索への依存を減らし、自然界には稀な、あるいは存在しない有用な性質を生み出しうる」と評価した。

読み、書き、設計した先に

今回の研究には明確な限界がある。標的としたΦX174は5,386ヌクレオチド、11遺伝子という極めて小さなゲノムだ。ヒトゲノムの30億塩基対と比べれば、1/55万以下の規模にすぎない。Hieは「ゲノム全体がヒトのある一つの遺伝子より短い」と述べている。より大きなゲノム、特に真核生物のゲノム設計にこの手法を拡張できるかは、未検証のままだ。

Evo 2の学習データから真核生物ウイルスの配列が意図的に除外されている点も、安全性の設計判断であると同時に、現在の技術的射程を示している。モデルが真核生物ウイルスの配列に対して高いパープレキシティ(予測困難さ)を示すことは、この領域がまだモデルの能力外にあることを意味する。

285通りの設計から16個が機能したという5.6%の成功率を、どこまで高められるか。宿主範囲をE. coli C株以外に広げられるか。臨床応用に向けた規制の枠組みは存在しない。ファージ療法そのものが、多くの国で承認プロセスの途上にある。

Sangerが読み、Venterが書き、Hieが設計した。同じ5,386文字のゲノムが、ゲノミクスの3つの時代を貫いている。次の時代が何をもたらすかは、この技術を使う側の判断に委ねられている。