2025年の年末、テクノロジー業界に衝撃的なニュースが駆け巡った。Microsoftの傑出したエンジニア(Distinguished Engineer)であるGalen Hunt氏が、LinkedIn上で「2030年までにMicrosoft社内のすべてのCおよびC++コードを排除する」という野心的な目標を公言したのだ。

さらに注目を集めたのは、その実行手段と生産性目標である。「AIとアルゴリズムの融合」により、「エンジニア1人あたり、1ヶ月で100万行のコード」を処理するという、従来のソフトウェアエンジニアリングの常識を覆す数値が提示された。

しかし、この投稿が拡散された数日後、事態は急展開を見せる。同氏は投稿を更新し、これが「公式な製品ロードマップではなく、あくまで研究プロジェクトである」との火消しに追われることとなった。

本記事では、この一連の騒動の経緯を整理しつつ、Microsoftが目指す「AIによるレガシーコードの近代化」の技術的背景、Rustへの移行が意味するセキュリティ上の必然性、そして「研究」という言葉の裏に隠された業界への真のインパクトについて見ていきたい。

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衝撃の「北極星」:1エンジニア・1ヶ月・100万行

Galen Hunt氏が当初LinkedInで明かした構想は、単なるプログラミング言語の移行話にとどまらず、ソフトウェア開発プロセスの根本的な変革を示唆するものだった。

CoreAIチームが描く「技術的負債」の解消

Hunt氏が率いるチームは、Microsoft CoreAI組織内の「Future of Scalable Software Engineering(スケーラブルなソフトウェア工学の未来)」グループに属している。彼らのミッションは、Microsoft、そして最終的には顧客が抱える膨大な「技術的負債」を、AIの力を用いて解消することにある。

彼が掲げた「北極星」、つまり究極の目標指標は以下の通りだ。

  • 目標: 2030年までにMicrosoftからC/C++の全行を排除する。
  • 戦略: AI(人工知能)とアルゴリズムを組み合わせて、最大級のコードベースを書き換える。
  • 生産性指標: 「1エンジニア、1ヶ月、100万行のコード(1 engineer, 1 month, 1 million lines of code)」。

単なるAI変換ではない「ハイブリッド・インフラ」

ここで技術的に極めて重要な点は、彼らがChatGPTのようなLLM(大規模言語モデル)に単に「コードを翻訳して」と頼んでいるわけではないということだ。Hunt氏は、これを実現するために「強力なコード処理インフラ」を構築したと述べている。

  1. アルゴリズムによるインフラ: ソースコード全体にわたり、スケーラブルな「グラフ」を作成する。これは、コードの構造、依存関係、データフローを数学的・論理的に解析する基盤となる。
  2. AI処理インフラ: 上記のアルゴリズムによるガイドを受けながら、AIエージェントがコードの変更・書き換えを行う。

つまり、LLMが陥りがちな「ハルシネーション(もっともらしい嘘)」や文脈の欠如を防ぐために、厳密なアルゴリズム解析(グラフ構造)がAIの「ガードレール」および「地図」として機能する仕組みを採用していると推測できる。この「構造化された理解」こそが、数億行規模のWindowsやAzureのコードベースを扱うための鍵となる。

修正発表:「Windows 11の書き換え」ではない

この投稿は瞬く間に拡散され、「Windows 11や次期WindowsがRustで全面的に書き直されるのか?」という憶測を呼んだ。これに対し、Hunt氏は12月24日(現地時間)に投稿を更新し、重要な事実関係の修正を行った。

「あくまで研究プロジェクト」

更新された内容によれば、要点は以下の通りだ。

  • Windowsの現状: WindowsはAIを使ってRustで書き直されているわけではない(Windows is NOT being rewritten in Rust with AI)。
  • プロジェクトの性質: チームの取り組みは「研究プロジェクト」である。
  • 真の意図: 言語間の移行を可能にする技術を構築することであり、Windows 11以降の新しい戦略を決定したわけではない。

この修正により、短期的にWindowsのカーネルがすべてRustに置き換わるという「誤解」は解かれた。しかし、これを単なる「個人の勇み足」と片付けるのは早計である。Microsoftにおいて「研究(Research)」から始まった技術が、数年後に全社的な標準ツールとなる例は枚挙に暇がないからだ。

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なぜ今、C/C++を捨ててRustなのか?

MicrosoftがC/C++からの脱却を模索するのは、これが初めてではない。むしろ、近年の同社のセキュリティ戦略の中核にあるテーマだ。

メモリ安全性という「70%」の問題

長年、Microsoft製品の脆弱性の分析において、衝撃的な事実が突きつけられてきた。それは、セキュリティ脆弱性の約70%が、メモリ安全性(Memory Safety)に起因するバグであるという統計だ。

CやC++は、メモリ管理(確保や解放)を開発者の手動操作に委ねている。その結果、解放済みのメモリにアクセスする「Use-After-Free」や、バッファの範囲外に書き込む「バッファオーバーフロー」といった致命的なバグが混入しやすい。

対してRustは、コンパイル時に厳格な「所有権(Ownership)」と「借用(Borrowing)」のルールを強制することで、これらのメモリ関連バグを理論上排除できる言語設計になっている。

Azure CTOの決断との符合

2023年、AzureのCTOであるMark Russinovich氏は、新規プロジェクトにおいてC/C++の使用を事実上禁止し、Rustの使用を推奨する方針を打ち出した。すでにWindowsカーネルの一部やAzureのコアコンポーネントではRustの導入が始まっている。

今回のHunt氏の「2030年脱却」発言は、公式なロードマップではないにせよ、社内の技術トップ層が共有する「メモリ安全な未来への渇望」を色濃く反映していると言えるだろう。

AIによるRust移植の壁

「C++をRustに書き換える」というのは、言葉で言うほど簡単ではない。LinkedInのコメント欄でも議論されているように、単純なトランスパイル(機械翻訳)では、Rustのメリットを殺してしまう可能性があるからだ。

「所有権モデル」の再設計

元GoogleやFacebookで経験を積んだエンジニアであるWolfgang Grieskamp氏が指摘するように、既存のC++コードをそのままRustに変換すると、メモリ管理のためにRc<T>(参照カウント)などの仕組みを多用することになりがちだ。これはパフォーマンスを低下させるだけでなく、Rust本来の安全性と効率性を損なう「非効率なコード」を生み出す。

Rustの真価を発揮するには、データ構造と所有権のモデルをゼロから設計し直す必要がある。Hunt氏が「AIだけでなくアルゴリズム(グラフ解析)」を強調しているのは、このためだと考えられる。

単に構文を翻訳するのではなく、コード全体のデータフローを解析し、「誰がこのデータの所有者であるべきか」というアーキテクチャレベルの推論をAIに行わせようとしているのだ。これは、現在の生成AI技術における最先端の挑戦の一つである。

「100万行」のリアリティ

「1エンジニア・1ヶ月・100万行」という数字は、Linuxの生みの親であるLinus Torvalds氏がかつて批判したような「無意味な指標」に見えるかもしれない。しかし、これは「人間が100万行書く」という意味ではなく、「AIが生成・変換した100万行のコードを、1人の人間が検証・承認できるレベルまで品質を高める」という意味だと解釈すべきだ。

これには、単なるコード生成だけでなく、自動テストの生成、形式検証、そして人間がレビューしやすい形への要約機能など、極めて高度なDevOpsパイプラインが必要となる。

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研究室から始まるパラダイムシフト

Galen Hunt氏の投稿は修正を余儀なくされたが、そこから見えてくる未来は明確だ。Microsoftは、数億行に及ぶレガシーコードという「遺産」であり「負債」でもある資産を、人海戦術ではなく、テクノロジーの力(AI×アルゴリズム)で解決しようとしている

「2030年」という期限や「全廃」という目標がそのまま達成されることはないかもしれない。しかし、この研究プロジェクトから生まれるツール群は、Windowsだけでなく、世界中の企業が抱える「メインフレーム時代のCOBOL」や「90年代のC++」を現代化するための強力な武器となる可能性がある。

このニュースは、単なるMicrosoftの内輪話ではない。「コーディング」という行為そのものが、「書く」ことから「AIと共に設計し、検証する」ことへとシフトしていく、その転換点を象徴する出来事として記憶されるべきだろう。


Sources