Mozillaは2025年5月23日、長年多くのユーザーに愛用されてきた「後で読む」サービスのPocketと、オンラインレビューの信頼性評価ツールFakespotの提供を終了すると発表した。この決定は、同社の主力製品であるWebブラウザFirefoxの機能強化と、変化するWeb利用環境への適応を目指す戦略転換の一環であるが、1つの時代の終わりに寂しさを覚えるのは、きっと筆者だけではないはずだ。
発表されたサービス終了の詳細とその背景
Mozillaの公式ブログによると、サービス終了のスケジュールは以下の通りだ。
- Pocket:
- 2025年5月22日をもって新規ダウンロードおよびPocket Premiumの新規購入が停止。
- 2025年7月8日にサービス提供を終了。以降はエクスポート専用モードへ移行。
- 2025年10月8日にデータエクスポート機能も終了し、全ユーザーデータが完全に削除される。
- Pocket Premiumの月額および年額サブスクリプションは本日より自動的にキャンセルされ、年額プラン契約者には7月8日付で日割り計算された返金が行われる。
- Fakespot:
- Fakespotの各種ブラウザ拡張機能、モバイルアプリ、ウェブサイトは2025年7月1日に提供終了。
- Firefoxに統合されていたレビュー評価機能「Review Checker」は、それに先立ち2025年6月10日に終了する。
Mozillaはこの「困難な決断」の理由について、「ユーザーの日々のニーズとウェブ自体が進化する中で、Firefoxと、ユーザーに真の選択、コントロール、そしてオンラインでの安心感を与える新しいソリューションの構築に努力を集中する必要がある」と説明している。つまり、限られたリソースを最も影響力の大きな分野、すなわちFirefox本体の開発に振り向けるという明確な意思表示だ。
だがこの発表は、それぞれのサービスを利用してきた多くのユーザーに驚きと戸惑いをもたらしている。特にPocketは、Webコンテンツの「読み直し」文化を長年にわたり支えてきた存在であり、その幕引きは時代の変化を象徴する出来事とも言えよう。
17年の歴史に幕を下ろすPocket – 「後で読む」文化を築いた功労者
Pocketは、2007年に「Read It Later」として産声を上げたサービスだ。当時は、スマートフォンが普及し始めたばかりで、Web上の膨大な情報を効率的に処理し、後でじっくりと読むというニーズが高まりつつあった。Pocketは、そのシンプルな機能と使いやすさで瞬く間に多くのユーザーを獲得し、「後で読む」という新しいWeb利用のスタイルを確立したと言っても過言ではないだろう。
長文記事や学術的な文献の保存にも強みを発揮し、2020年にはそのキュレーション能力が評価され「Webby賞」を受賞するなど、質の高いコンテンツプラットフォームとしても認知されていた。2015年にはFirefoxに標準機能として統合され、2017年にはMozillaによって買収される。これは、Mozillaがブラウザ本体以外のサービスにも事業領域を拡大しようとしていた時期の象徴的な出来事だった。
Mozillaは「人々がWebコンテンツを保存し、消費する方法が進化してきた」と指摘する。現代のブラウザには、すでにブックマーク管理や「リーディングリスト」機能、さらには記事の「リーダーモード」が標準搭載されており、加えてソーシャルメディアの隆盛や動画コンテンツの爆発的な増加により、ユーザーの情報消費行動は、かつてPocketが想定していた「じっくり記事を読む」というスタイルから、より短時間で大量の情報を消費する方向へと変化している。
Pocketのキュレーション機能は、すでにFirefoxの新タブページに統合されており、今後もその体験は継続・改善されていくという。また、「Tab Groups」や強化されたブックマーク機能など、Firefox本体にも読書リスト管理のためのツールが組み込まれていることから、Pocketの核となる機能はFirefox内部で形を変えて生き続けることになるだろう。Pocketのニュースレター「Pocket Hits」も「Ten Tabs」と名を改め継続されるが、週末版は廃止されるなど、その形態は縮小される。
多くのユーザーにとっては、まさに「寝耳に水」の発表だったのではないだろうか。長年蓄積してきた記事や情報が失われることへの不安や、慣れ親しんだツールがなくなることへの寂しさを表明する声もSNSなどで散見される。Mozillaはデータエクスポートの手段を提供しているが、ユーザーは期限までに対応する必要がある。
短命に終わったFakespot – AI倫理と持続可能性の狭間で
一方のFakespotは、Mozillaが2023年半ばに買収した比較的新しいサービスだ。AIを活用してオンラインショッピングのレビューの信頼性を分析し、偽レビューや不自然な高評価を見抜く手助けをするという、現代のネット通販における課題に対応する意欲的なツールだった。Mozillaは買収当時、「倫理的なAIと責任ある広告に関する我々の取り組みに合致する」と期待を寄せていた。
しかし、今回の終了についてMozillaは「アイデアは共感を呼んだものの、我々が持続できるモデルには合致しなかった」と述べている。具体的な理由は詳述されていないが、AI技術の維持コスト、マネタイズの難しさ、あるいはFirefox本体とのシナジー効果が期待したほどではなかった可能性などが考えられる。ユーザーのプライバシーを重視するMozillaにとって、収益化と倫理のバランスを取ることが難しかったのかもしれない。
Firefoxへの回帰と未来戦略 – Mozillaが描く次世代ブラウザ
今回のサービス終了は、単なるリストラではなく、Mozillaが改めてFirefoxという中核事業に全力を注ぐという強い決意の表れだ。同社は「この転換により、垂直タブ、スマート検索、そしてさらなるAI搭載機能といったツールで、インターネットの次の時代を形作ることができる」と強調している。
「垂直タブ」は、現代のブラウザにおいてタブの数が爆発的に増加する中で、視認性と管理性を向上させるための有効な手段として注目されている。また「スマート検索」は、ユーザーの意図をより深く理解し、文脈に応じた最適な情報提供を目指すものであろう。そして何よりも注目されるのは「AI活用機能」の強化だ。Fakespotの失敗から学び、Firefoxのコア機能としてAIを組み込むことで、ユーザーのプライバシーを尊重しつつ、よりパーソナルで強力なブラウジング体験を提供することを目指す考えが伺える。
Mozillaは、これらの新機能を通じて「次世代のインターネット」を形作り、「あなたのために、より懸命に働くブラウザ」を構築すると宣言している。これは、プライバシー保護とユーザー主導の原則を掲げるMozillaが、Google ChromeやMicrosoft Edgeといった巨大テック企業が提供するブラウザ群とは一線を画し、独自のAI戦略とユーザー体験で差別化を図ろうとする、大胆な挑戦と言えるだろう。
Mozillaは長年、Google ChromeやMicrosoft Edgeといった巨大IT企業が提供するブラウザとの厳しい競争に晒されてきた。「億万長者に支援されていない唯一の主要ブラウザ」としての独立性を誇りとしてきたが、その独立性を維持するためには、リソースの選択と集中が不可欠だったのだろう。
今後Firefoxに実装が予定されている機能は、ユーザー体験の向上とパーソナライゼーションを重視したものが多い。AIを活用した機能が具体的にどのような形でユーザーにもたらされるのか、そしてそれがFirefoxの競争力を再び高めることに繋がるのか、注目が集まる。
岐路に立つMozillaの英断か、苦渋の選択か
Pocketの前身である「Read It Later」から愛用していた筆者にとって、今回の決定は残念ではある。だが、MozillaにとってもPocketのような広く愛されたサービスを終了するという決断は、相当な痛みを伴うものだったはずだ。しかし、それは同時に、Mozillaが自らのアイデンティティと進むべき道を見据え、厳しい現実の中で最善と信じる手を選んだ結果とも言える。
Webの進化は速く、ユーザーのニーズも絶えず変化する。その中で、独立性を保ちながら革新を続けることは容易ではない。PocketやFakespotで得た知見や技術が、今後のFirefox開発に活かされることは間違いないだろう。重要なのは、今回の「選択と集中」が、Firefoxを本当に「よりパーソナルで、よりパワフルな」ブラウザへと昇華させ、ユーザーに新たな価値を提供できるかどうかだ。
今回の発表は、多くのPocketユーザーにとっては残念な知らせだろう。しかし、MozillaがFirefoxというオープンソースの灯を絶やさず、ウェブの多様性とユーザーの選択肢を守るために戦い続けるという意思表示であると捉えれば、その決断の重みも理解できるのではないだろうか。今後のFirefoxの進化に、改めて期待を寄せたい。
Sources
- Mozilla: