NFC Forumは2025年6月17日、非接触通信技術NFC(Near Field Communication)の新たな標準規格「NFC Release 15」を正式に発表した。この新規格の最大の目玉は、通信可能な距離(Operating Volume)を現行の5mm(0.5cm)から最大2cmへと4倍に拡大することだ。一見わずかな変化だが、これはApple PayやGoogle Walletといった日常のスマホ決済における「タップの失敗」を劇的に減少させ、ユーザー体験を大きく変えてくれるかもしれない。
「タップが反応しない…」誰もが経験したストレスを解消する2cmの革新
スーパーのレジで、改札で、スマートフォンやスマートウォッチを決済端末にかざすも、なかなか反応せずに気まずい思いをした経験は誰にでもあるだろう。特にApple WatchやSamsung Galaxy Watchのような小型のウェアラブルデバイスでは、NFCアンテナの位置がシビアなため、最適な角度や位置を探して手首を動かす「気まずい思い」を強いられることも少なくなかった。
今回の「NFC Release 15」は、この「最後の1cm」とも言える物理的な壁を取り払うものだ。 通信距離が現在の4倍である2cmにまで拡大されることで、デバイスをかざす際の精密な位置合わせが不要になる。 これにより、NFC接続はより迅速に開始され、通信の信頼性が大幅に向上する。
NFC Forumのエグゼクティブ・ディレクターであるMike McCamon氏は、「NFCの通信距離拡大は、市場の変化するニーズに応え、より迅速で簡単な取引を実現するために、NFC Forumの5カ年ロードマップで示された最優先事項の一つだった」と述べている。
この改善は、決済や改札といった日常的なインタラクションにおける小さなストレスや摩擦を解消し、「タップする」という行為そのものを、よりシームレスで直感的なものへと昇華させる「体験価値の革命」と言えるだろう。
決済だけではない、NFCが拓く「タップの先」にある未来
通信距離の拡大がもたらす恩恵は、決済体験の向上だけに留まらない。「NFC Release 15」は、これまで技術的な制約から普及が限定的だった、あるいは構想段階にあった新たなユースケースを一気に現実のものとする起爆剤となる可能性を秘めている。
スマートフォンが決済端末に変わる「Tap to Pay」の本格化

新規格は、スマートフォンを決済受付端末として利用する「Tap to Pay」の信頼性を高める。 これにより、小規模事業者や個人事業主が、高価な専用決済端末を導入することなく、手持ちのスマートフォンだけでクレジットカードやデビットカードの非接触決済を受けられるようになる。フリーマーケットの出店者からフードトラックのオーナーまで、あらゆるビジネスシーンでキャッシュレス化が加速するだろう。
サステナビリティを後押しする「デジタルプロダクトパスポート(DPP)」
「NFC Release 15」は、EUなどで導入が進む循環型経済規制に対応する「デジタルプロダクトパスポート(DPP)」をサポートする。 これは、製品に埋め込まれたNFCタグに、その製品の原材料、製造工程、修理履歴、リサイクル情報といったライフサイクル全体のデータを記録・送信させる仕組みだ。
消費者はスマートフォンを製品にかざすだけで、その製品がどのように作られ、環境にどのような影響を与えるのかを知ることができる。企業側も、サプライチェーンの透明性を確保し、規制遵守を容易にする。 新規格は、このDPPに必要なデータを標準的なNFCデータ交換フォーマット(NDEF)で扱えるようにすることで、シームレスな相互運用性を確保する。
1Wのワイヤレス充電からデジタルキーまで、広がる応用分野
さらに、今回のアップデートは以下のような多様な応用分野の発展を後押しする。
- 低電力ワイヤレス充電: 最大1Wのワイヤレス充電をサポートし、小型のウェアラブルデバイスやIoT機器への充電がより手軽になる可能性が示唆されている。
- デジタルキー: スマートフォンやスマートウォッチを自動車や家の鍵として利用する際の信頼性が向上する。
- スマート家電: 家電製品にNFCタグを搭載し、スマートフォンをかざすだけで設定や操作、トラブルシューティングが可能になるなど、より直感的な連携が期待される。
これらのユースケースは、NFCが単なる「決済技術」から、物理世界とデジタル情報を繋ぐ「汎用的なインタラクション技術」へと進化を遂げつつあることを明確に示している。
なぜ今、この変革が?背景にある巨大テック企業の協調と標準化の力学
この歴史的な規格改定を主導しているのは、NFC技術の標準化団体である「NFC Forum」だ。その理事会には、Apple, Google, Huawei, NXP Semiconductors, Sony, STMicroelectronicsといった、普段は市場で激しく競合する巨大テクノロジー企業が名を連ねている。
彼らがなぜ、このNFCというインフラ技術においては協調するのか。それは、特定の企業が独占するのではなく、業界全体で相互運用性を確保し、信頼性の高い共通基盤を築くことこそが、市場全体のパイを拡大し、ひいては自社の製品やサービスの価値を高めることに繋がると理解しているからに他ならない。
今回の「NFC Release 15」は、彼らが策定した長期的な技術開発計画「5カ年ロードマップ」に基づいた、計画的な進化の一環である。 これは、技術が場当たり的に進化しているのではなく、業界のリーダーたちが未来を見据え、戦略的に技術の舵取りを行っていることの証左と言えるだろう。
いつから体験できる?今後のスケジュールと注意点
では、私たちはいつからこの新しいNFCの恩恵を受けられるのだろうか。
NFC Forumによると、「NFC Release 15」の技術仕様書は、すでに主要メンバー向けに公開されている。 そして、一般への公開と、新規格に準拠した製品の認証プログラムの開始は「2025年秋」を予定している。
ただし、一点注意が必要だ。この通信距離拡大の恩恵を受けるためには、スマートフォンや決済端末のハードウェア(NFCチップやアンテナ設計)が新規格に対応している必要がある可能性が高い。既存のデバイスがソフトウェア・アップデートだけで対応可能になるかどうかは、現時点では不明だ。
一部にはすでに2cm以上の通信距離を実現しているデバイスも存在するという指摘もあるが、今回の「標準化」によって、あらゆるデバイス間で安定したパフォーマンスが保証される点にこそ、大きな価値がある。 新規格に対応したスマートフォンやスマートウォッチ、決済端末が登場するのは、早くとも2025年末から2026年にかけてとなるだろう。
今回の「NFC Release 15」は、単なる技術仕様のマイナーアップデートではない。それは、非接触技術におけるユーザー体験を再定義し、新たなビジネスチャンスを創出し、サステナビリティのような社会課題への貢献をも可能にする、重要な一歩である。我々が日常的に行う「タップ」という行為の意味合いそのものを、より豊かで信頼性の高いものへと変えてしまう、静かな、しかし確実な革命が始まろうとしている。
Sources
- NFC Forum: NFC Forum Announces NFC Release 15