電子や原子の振る舞いを支配する量子力学の効果を、目に見える大きさの物体の運動に利用できるのか。これは、量子力学と古典力学の境界を探る研究における重要な課題の一つだ。

量子力学は半導体や核磁気共鳴など、現代の科学技術の基礎となっている。しかし、巨視的な物体では周囲の熱や振動との相互作用が大きく、量子的な性質を維持したり、その効果を精密に測定したりすることが難しい。そのため、電子スピンと物体の運動を結び付ける研究の多くは、微小な構造を対象としてきた。

沖縄科学技術大学院大学(OIST)の研究チームは、これとは逆の発想で実験に取り組んだ。

研究チームは、反磁性を利用して空中に浮かせた質量128mgの振動子を製作。ダイヤモンド結晶内に存在する電子スピンをレーザー光で制御し、そのスピンに由来する微小な力によって、振動子全体を上下に動かすことに成功した。

実験では、大気中で約100nm、真空中で最大約1.5µmの振動が観測された。

研究成果は2026年10月7日、査読付き学術誌『Science Advances』に論文「Spin-force from a Nitrogen-Vacancy ensemble drives a 100 mg levitated resonator」として掲載された。先行するプレプリントは同年5月18日にarXiv(2605.17750)で公開されている。

今回の成果は、電子スピンという量子力学的な性質に由来する力を使い、100mgを超える物体の運動を制御できることを示したものだ。これまで微小な機械系を中心に進められてきたスピン力学の研究を、巨視的な物体へ広げる重要な一歩となった。

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128mgの浮遊体を、電子スピンの力で動かすことに成功

今回の研究で注目すべきなのは、電子スピンが生み出す微小な力を、従来よりはるかに重い物体に作用させ、その動きを直接観測した点だ。

研究を主導したのは、OIST量子マシンユニットのジェイソン・トゥワムリー(Jason Twamley)教授らのチームだ。論文には、筆頭著者のアンシュマン・ナヤック(Anshuman Nayak)氏、キム・デヒー(Daehee Kim)氏、東京科学大学にも所属するティアン・シル(Shilu Tian)氏が名を連ねている。

OISTの公式発表では、電子スピンの力によってセンチメートル級の物体を動かした世界初の観測として紹介されている。

論文によると、実験に使用した振動子の総質量は128mgだった。OISTのトゥワムリー教授は、これが従来の最先端のスピン力学実験で扱われてきた物体より8〜9桁、すなわち1億〜10億倍も大きな質量に相当すると説明している。

従来は、極めて軽い粒子や微細な機械構造を使い、量子スピンと運動の関係を調べる研究が中心だった。これに対して今回の研究では、最初から比較的大きな物体を空中に浮かせ、そこに電子スピンの力を作用させる方法を採用した。

物体を徐々に大型化するのではなく、巨視的な物体に微小な力を作用させるというアプローチだ。

もっとも、実験対象は研究室内に設置された精密な装置であり、人体や生体を動かしたわけでも、屋外での応用試験が行われたわけでもない。

今回の成果は、厳密に制御された実験環境で、電子スピンに由来する力によって128mgの振動子を動かせることを示した基礎物理学の実証実験と位置づけられる。

反磁性浮上とダイヤモンドのNV中心を組み合わせた仕組み

研究チームが開発した装置は、反磁性を利用して物体を浮かせる仕組みと、ダイヤモンドに含まれる電子スピンを制御する仕組みを組み合わせている。

浮遊体を支えているのは、熱分解グラファイトと呼ばれる炭素材料だ。

グラファイトには、外部から加えられた磁場を打ち消す方向に磁化する「反磁性」という性質がある。この性質を利用すると、適切に配置した永久磁石の上で、外部から電力を供給せずにグラファイト板を浮かせることができる。

今回の装置では、磁化の向きを市松模様状に配置した4個の永久磁石の上に、スリットを設けたグラファイト板を浮かせている。

グラファイト板にスリットを入れた主な目的は、物体の運動によって発生する渦電流を抑え、磁気的な減衰を小さくすることだ。これにより、振動が減衰しにくい構造を実現している。

グラファイト板の上には、振動を測定するための小さな鏡が取り付けられている。

板の中央からは細い炭素繊維製のロッドが下方へ伸びており、その先端にダイヤモンド結晶が固定されている。

ダイヤモンド試料の大きさは3×3×0.5mmで、窒素空孔(NV)中心と呼ばれる結晶欠陥を約4.5ppmの濃度で含んでいる。

グラファイト板とダイヤモンドはロッドで一体化されており、可動部分全体の質量は128mgになる。つまり、センチメートル級なのは浮遊機構を含む構造であり、ダイヤモンド結晶自体はミリメートル級だ。

グラファイト板を浮かせるための磁石と、ダイヤモンドに力を作用させるための磁石は別々に配置されている。

炭素繊維ロッドは磁石アレイの中央を通り、磁気シールドを貫いて下方へ伸びる。このシールドによって、浮上用の磁石が作る磁場の影響をダイヤモンド側で抑えている。

そして、ダイヤモンドの下には、スピンに力を作用させるための別の円柱状永久磁石が置かれている。

実験で使われた主な構成を整理すると、次のようになる。

構成要素 今回の実験での役割・仕様
浮遊体 グラファイト板、炭素繊維ロッド、ダイヤモンドなどからなる質量128mgの複合振動子
浮上機構 永久磁石の上にグラファイト板を浮かせる反磁性浮上
グラファイト板 10×10×1mm。スリットを設け、渦電流による減衰を抑制
ダイヤモンド 3×3×0.5mm。NV中心を約4.5ppm含む
スピン制御 波長532nmの緑色レーザーを周期的に照射
磁場勾配 ダイヤモンド下部の永久磁石で生成。実験で扱った範囲は約10〜100T/m
振動測定 グラファイト板上の鏡を用いたレーザー干渉計
観測された運動 電子スピンに由来する力による古典的な重心振動

この装置で重要な役割を担うのが、ダイヤモンド内部に存在するNV中心だ。

NV中心は、ダイヤモンドの炭素原子の一部が窒素原子に置き換わり、その隣に炭素原子の欠けた場所がある結晶欠陥である。

NV中心の電子状態にはスピン量子数 S = 1 の状態があり、外部から光やマイクロ波を使って制御できる。この電子スピンは磁気モーメントを持ち、微小な磁石のように振る舞う。

研究チームは、この電子スピンの状態を周期的に変えることで、振動子に力を加えた。

具体的には、波長532nm、出力50mWの緑色レーザーを使用し、振動子の固有振動数に合わせて照射と停止を繰り返した。

レーザーを照射すると、NV中心の電子は光学的に励起され、スピン磁気量子数 mₛ = 0 の状態へ偏極する。一方、照射を止めると、スピンは緩和過程を経て熱平衡状態へ戻っていく。

この操作によって、NV中心の集団が持つ磁気モーメントが周期的に変化する。

磁場の強さが場所によって異なる「磁場勾配」の中では、磁気モーメントを持つ物体に力が作用する。

単純化すると、磁場勾配による力は次の関係で表せる。

Fz ≈ μz × ∂Bz/∂z

ここで、μzは磁気モーメントの垂直方向成分、∂Bz/∂zは磁場の垂直方向の変化率を表す。

ダイヤモンドの下方に置かれた永久磁石は、この磁場勾配を作り出す。

NV中心のスピン状態が変わると、ダイヤモンドに作用する力も変化する。その結果、下方の磁石へ引き寄せる力が周期的に強弱を繰り返し、ダイヤモンドと一体化した浮遊体全体を振動させる。

このとき、レーザーの照射周期を振動子の固有振動数に合わせることで共振が起こり、微小な力でも比較的大きな変位を生み出せる。

研究チームは、NV中心の基底状態、励起状態、中間状態を含む7準位モデルを使い、レーザー照射によるスピン偏極と、それに伴う力の変化を数値計算した。

モデルでは、約1mmのレーザースポット内で磁気モーメントが一様であると近似し、計算結果に一定の補正係数を適用している。

その結果、レーザー出力やダイヤモンドと磁石の距離を変えた際の力の変化を、実験結果とよく一致する形で再現できた。

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17.6Hzの共振で100nmの振動、真空中では最大1.5µmに

研究チームは、浮遊体の動きをレーザー干渉計で測定した。

干渉計は、グラファイト板上の鏡で反射したレーザー光と参照光を比較し、物体の位置の変化を高精度に検出する装置だ。

今回使用した測定系は、原理的にはピコメートル(1兆分の1メートル)程度の微小な変位を検出できる性能を備えている。

測定の結果、振動子の垂直方向の固有振動数は17.6Hzだった。また、大気圧下での力学的品質係数(Q値)は55だった。

Q値は、振動がどの程度減衰しにくいかを表す指標であり、値が大きいほど振動を長く維持しやすくなる。

研究チームが17.6Hzの共振周波数に合わせて緑色レーザーを周期的に照射したところ、振動子の重心が上下に動き始めた。

大気圧下で観測された定常的な振幅は約100nmだった。

この振幅は、レーザーを照射していない状態で生じる、熱的なブラウン運動によるナノメートル程度の揺らぎを大きく上回っている。

さらに、真空環境での測定では、最大約1.5µmの振幅が得られた。

大気中では、周囲の空気による抵抗が振動を減衰させる。真空にすると、この抵抗が小さくなるため、同じような微小な駆動力でも振動が大きくなりやすい。

また、観測された動きが偶然の揺らぎではなく、レーザー照射に対応した周期的な運動であることも確認された。

研究チームは、記録した振動波形を1周期ごとに区切って平均化した。その結果、明瞭な正弦波状の振動が残り、矩形波状の周期的な力で駆動された調和振動子の予測と一致した。

これは、振動がレーザーの駆動周期と安定した位相関係を保っていることを示している。

さらに、振動子が下方の永久磁石へ向かって変位したことから、作用した力が理論モデルの予測どおり、磁石に引き寄せる方向の力であることも確認された。

5nNを超える力は、振動の測定結果から推定

研究チームは、観測された振幅や振動子の質量、共振周波数、Q値などを使い、電子スピンに由来する力の大きさを推定した。

その結果、実験条件によっては5nN(ナノニュートン)を超える力が生じていたことが分かった。

1nNは10億分の1ニュートンに相当する、極めて小さな力だ。

しかし、摩擦や空気抵抗による損失を小さくした振動子に対し、その固有振動数に合わせて繰り返し力を加えれば、この程度の力でも観測可能な変位を生み出せる。

重要なのは、今回の力がNV中心の全スピンを完全に反転させることで生まれたわけではないという点だ。

論文によれば、スピン集団の状態が部分的に変化するだけでも、磁場勾配との相互作用によって十分な駆動力が生じた。

ただし、5nNという値は、力を直接読み取る装置で測ったものではない。共振器の変位データと力学モデルを組み合わせて求めた推定値である。

研究チームは、この力が本当に電子スピンに由来するのかを確かめるため、追加の対照実験も実施した。

まず、ダイヤモンドに磁場勾配を与える永久磁石を取り外すと、特徴的な共振ピークは消えた。

また、NV中心を光学的に偏極させない波長980nmの赤外線レーザーを使った場合にも、緑色レーザー照射時のような強い振動は現れなかった。

これらの結果は、観測された振動が単なるレーザー加熱や光の直接的な力ではなく、NV中心のスピン状態と磁場勾配の相互作用によって引き起こされたことを支持している。

一方、実験には測定感度上の制約も残っている。

論文によれば、実験中の変位測定における雑音の大きさは約1nmだった。

この限界を決めていたのは干渉計そのものの性能ではなく、実験室の床振動や周囲の音など、外部環境に由来する雑音だった。

研究チームは、除振性能をさらに高めることで、測定感度を現在より約3桁改善し、干渉計本来のピコメートル領域に近づけられる可能性があるとしている。

ただし、これは今後の改良による見通しであり、今回の実験ですでにピコメートル精度の振動測定が実現したという意味ではない。

「シュレーディンガーの猫」は実現したのか

今回の研究では、電子スピンに由来する力によって巨視的な物体を動かすことに成功した。しかし、物体そのものが量子的な運動状態になったわけではない。

ここが、実験で確認された成果と、将来の研究目標を分ける重要なポイントだ。

量子力学における「位置の重ね合わせ」とは、物体が異なる位置に対応する複数の量子状態を同時に持つ現象を指す。単に物体が二つの位置の間を往復運動することとは、本質的に異なる。

今回観測された振動は、ニュートンの運動方程式で説明できる古典的な調和振動だった。

実験では、浮遊体全体が異なる位置の量子重ね合わせ状態になったことも、電子スピンと振動子の運動の間に量子もつれが形成されたことも確認されていない。また、振動子が量子力学的な基底状態まで冷却されたわけでもない。

前述の振動波形に見られた安定した位相関係も、レーザーによる周期的な駆動と振動子の運動が同期していることを示すものであり、巨視的な量子コヒーレンスの証拠ではない。

OISTのトゥワムリー教授も、今回の成果を、小さな量子効果から大きな古典的応答を引き出した実験と位置づけている。

一方、将来的に巨視的な量子状態を実現するうえで、研究チームが期待しているのが、ダイヤモンド中のNV中心が持つ性質だ。

共著者のキム氏は、NV中心が室温でも比較的長いコヒーレンス時間を維持できることを、この研究手法の利点として挙げている。

量子コヒーレンスとは、複数の量子状態の間にある位相関係が保たれる性質を指す。NV中心はこの性質を比較的維持しやすく、量子センサーや量子情報処理の研究にも利用されている。

しかし、電子スピンの量子状態を維持できることと、128mgの振動子全体を量子状態として制御できることの間には、大きな技術的な隔たりがある。

巨視的な物体で量子重ね合わせを実現するには、スピンと物体の運動を量子力学的に結び付け、周囲の熱や振動などによって量子コヒーレンスが失われる「デコヒーレンス」を十分に抑える必要がある。

OISTの発表では、トゥワムリー教授が、さらに1桁程度の進歩によって現実の世界で「シュレーディンガーの猫」を観測する可能性にも言及している。

これは、今回の成果を出発点とする将来の研究構想であり、必要な条件がすでに整ったことを意味するものではない。

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熱や振動の影響を抑え、量子状態の制御へ進めるか

今回の実験装置を、将来的な精密センサーや量子力学の基礎実験へ発展させるには、いくつかの課題を解決する必要がある。

その一つが、レーザー照射に伴う加熱の影響だ。

今回使用した532nmの緑色レーザーは、ダイヤモンド中のNV中心を光学的に偏極させるために必要だった。

しかし、ダイヤモンドがレーザー光を吸収すると温度が上昇する。論文では、照射によってダイヤモンド全体の温度が約3K上昇する可能性があると見積もっている。

こうした温度変化は、周囲の気体との相互作用や材料の熱膨張などを通じて、スピンとは無関係な力学的な変位を引き起こす可能性がある。

研究チームは、この影響を抑えるため、ダイヤモンドを周囲の固体表面から離して配置し、熱による気体の力が働きにくい構造を採用した。

また、前述の磁石を取り外す実験や赤外線レーザーを使った対照実験によって、観測された強い振動が電子スピンに由来することを検証している。

したがって、熱の影響がまったく検証されていないわけではない。ただし、さらに精密な量子状態の制御を目指す場合には、レーザー加熱に伴う不要な運動をいっそう小さくする必要がある。

研究チームは、今後の改善策として、より短いレーザーパルスや、マイクロ波を使って電子スピンをコヒーレントに制御する方法を挙げている。

マイクロ波によってスピン状態を精密に操作できれば、現在の光学的な偏極と熱緩和を繰り返す方式よりも、スピンと振動子の相互作用を高度に制御できる可能性がある。

将来的には、スピンと機械振動の間で量子的なエネルギー交換を起こしたり、スピンを利用して振動子の運動を冷却したりする技術への発展が期待される。

Q値を55から10万規模へ高める構想

もう一つの重要な課題が、振動の減衰をさらに小さくすることだ。

今回の装置では、大気圧下での力学的Q値が55だった。真空にすることで空気抵抗による減衰を減らし、より大きな振幅を得ることはできる。

しかし、減衰の原因は空気抵抗だけではない。

グラファイトが永久磁石の作る磁場の中で動くと、材料内部に渦電流が発生する。この渦電流によってエネルギーが失われるため、真空度を高めるだけでは振動の減衰を完全になくすことはできない。

研究チームは、グラファイト板の構造を改良したり、複合材料を使用したりすることで、こうした損失をさらに減らす方法を検討している。

論文では、高真空環境と低損失の複合材料を組み合わせることで、Q値を10万程度まで高められる可能性が示されている。

その場合、比較的弱いスピン偏極による力でも、振幅を約100µmまで大きくできると予測している。

ただし、Q値10万や振幅100µmは、将来の改良を想定した見積もりだ。今回の実験で実際に達成した値ではない。

量子重力の検証や高感度センサーへの応用はこれから

OISTの研究チームは、今回の装置を将来的に量子力学と重力の関係を調べる基礎実験や、高精度なセンサーの開発へつなげたいと考えている。

具体的な研究の方向性として、巨視的な量子状態の生成に加え、暗黒物質の探索、重力波の検出、未知の微弱な相互作用の検証などが挙げられている。

ただし、今回の実験で暗黒物質や重力波が検出されたわけではない。また、これらの信号に対する具体的な検出感度を実証したものでもない。

現段階では、電子スピンに由来する力を使い、巨視的な浮遊体を精密に駆動できることを示した基礎技術の実証である。

今後、こうした応用研究へ進むには、環境振動や熱雑音をさらに抑えるとともに、スピンと物体の運動との間で量子的な相互作用を制御する技術が必要になる。

また、今回の結果は研究チームが構築した実験装置で得られたものであり、2026年10月9日時点では、独立した別の研究グループによる追試結果は確認されていない。

他の研究機関でも同様の現象を再現できるか、装置の構成や環境条件が変わっても安定した測定が可能かという点も、今後の重要な検証課題となる。

今回の成果は、電子スピンの微小な力を、従来より1億〜10億倍も重い物体の運動に結び付けられることを示した点にある。

今後、装置の減衰や環境雑音をさらに抑え、スピンと振動子の相互作用を精密に制御できるようになれば、量子力学が巨視的な物体にどのように現れるのかを、より直接的に検証する道が開ける可能性がある。

今回の実験は、そのための新たな研究基盤を示したといえる。