2017年、物理学界に一つの鮮烈な思考実験が投じられた。それは、マイクログラムという目に見える質量の粒子を二つ用意し、重力だけを介して量子もつれが生じるかを確認するというものだ。もしこのもつれが観測されれば、重力そのものが量子的な性質を持つ決定的な証拠になる。アインシュタインの一般相対性理論と量子力学を統合する「量子重力」の検証には、これまで巨大加速器でも到達できない約 $1.2 \times 10^{19} \text{ GeV}$ というプランクスケールの莫大なエネルギーが必要だとされてきた。それに比べれば、この卓上実験の手法は人類にとって大きな希望であった。
物理学における一世紀の空白と卓上実験の勃興
交わらない二つの理論体系
一般相対性理論と量子力学の統合は、物理学において過去1世紀にわたる最大の課題である。量子力学の標準模型は、電磁気力、強い核力、弱い核力の三つを量子場の理論として見事に束ね上げた。しかし、重力だけがそこから孤立している。一般相対性理論の枠組みでは、重力は他の三つの力のように空間を飛び交う粒子のやり取りとしてではなく、空間そのものの幾何学的な構造の歪みとして記述されるからだ。舞台の上で演じられる役者の振る舞いを計算する量子力学に対し、舞台そのものが曲がったり伸びたりする効果を計算する一般相対性理論は、前提とする世界観が根本的に異なる。
この二つの理論は、通常は交わる領域を持たない。宇宙の星々の運行を計算する際に原子の揺らぎを気にする必要はなく、電子の振る舞いを計算する際に地球の重力は無視できるほど小さい。しかし、ブラックホールの中心にある特異点や、宇宙誕生の瞬間であるビッグバンにおいては事情が変わる。極めて微小な領域に巨大な質量が押し込められるため、ミクロの法則とマクロの法則を同時に適用しなければならない。滑らかな時空のキャンバスと、激しく揺らぐ量子の振る舞いをそのまま数式上で混ぜ合わせると、計算結果が無限大に発散して破綻する。
加速器の限界とテーブルトップの希望
これを回避し、重力そのものを量子化して記述する「量子重力理論」の構築が必要だった。弦理論やループ量子重力理論など、多くの数学的枠組みが提唱されてきたものの、決定的な裏付けは得られていない。長らくその実験的検証は現実的に不可能だと考えられていた。重力の量子効果が明確に顕在化するプランクスケールのエネルギー領域には、欧州原子核研究機構(CERN)の大型ハドロン衝突型加速器(LHC)を用いても、およそ15桁も届かない。
その絶望的な状況に一筋の光が差し込んだのが2017年のことだ。サウガト・ボーズやキアラ・マルレット、ヴラトコ・ヴェドラルといった物理学者たちが、巨大な加速器に頼らずとも、マイクログラムクラスの質量を用いた卓上実験(テーブルトップ実験)によって、量子重力の効果を間接的に検証できるシナリオを提唱したのである。
「重力を介したもつれ」は唯一の証明か
質量を重ね合わせて相関を探る
提唱された実験の中核にあるのが、重力による量子もつれの観測だ。量子力学の世界では、粒子は「右にある状態」と「左にある状態」を同時に生きる「重ね合わせ」をとる。
実験の手順は次のようなものだ。まず、二つの微小な質量(例えば極小のダイヤモンド結晶など)をそれぞれ空間的な重ね合わせ状態にし、極めて近い距離に配置する。外部からの電磁気力や気体分子との衝突などを完全に遮断し、二つの質量の間に働く相互作用を重力だけに絞り込む。もし時間が経つにつれて二つの粒子の状態が互いに関連づけられ、一方が右にあれば他方もそれに引かれて特定の位置に収まるといった特殊な相関関係を結んだとすれば、どう解釈すべきだろうか。
古典的な重力では説明できない現象
現代の量子情報理論によれば、媒介するチャネル(この場合は重力)が純粋に古典的なものであれば、空間的に離れた二つの系に新たな量子もつれを生み出すことはできない。この原理はLOCC(局所的量子操作と古典通信)という枠組みで数学的に証明されている。古典的な手段を通じてどれほど複雑な指示を送り合っても、離れた系に量子特有のもつれを作り出すことは不可能なのだ。古典的な重力場を介した相互作用は、このLOCCの枠組みに該当する。
重力を介して二つの物質がもつれたのであれば、その相互作用を媒介する重力場そのものもまた、古典的な存在ではなく、量子的な重ね合わせの状態をとらなければならない。これが、強固な前提となってきた論理だ。
それ以来およそ10年間、この現象の観測こそが重力の量子性を実証する決定的な証拠になると見なされてきた。世界中の実験物理学者たちはこの理論的予測を実証すべく、熱雑音などの干渉を極限まで取り除いた精密な実験装置の開発に鎬を削ってきた。もつれが観測されれば、それはアインシュタインの時空が量子的であることを示す歴史的なマイルストーンになるはずだった。
視点の変換がもたらす「だまし絵」のような時空
解釈を反転させるルビンの壺
重力によるもつれが観測されれば、量子重力は証明される。その熱狂の最中にあって、九州大学高等研究院のフー・ジョシュア准教授やストックホルム大学のマグダレナ・ジッチ博士を中心とする国際研究チームは、定説の根底に潜む前提を問い直した。彼らは「時空の重ね合わせの相対性」という新たな理論的枠組みを構築し、2024年5月、学術誌『npj Quantum Information』に発表した。
研究チームが数学的に証明したのは、重力場が量子的な重ね合わせにあるというシナリオが、全く別の物理現象として完全に翻訳可能であるという事実だ。
これを直感的に捉えるために、向かい合った二人の横顔にも、一つの大きな壺にも見える「ルビンの壺」と呼ばれるだまし絵の構造を考える。絵を構成するインクの配置そのものは一切変化しないが、観測者が視点をどこに置くかによって、認識される対象は「顔」から「壺」へと完全に切り替わる。本研究が示したのは、これと構造的に対応する現象が時空の記述においても生じているということだ。
座標系が引き起こす状態の等価変換
時空の量子的な重ね合わせを含む状態は、ある座標変換を施すことで、単一の固定された古典的重力場の中を量子的な粒子が移動している状態として再記述できる。研究チームは、二つの状態(重ね合わせの振幅)が座標系の変換によって互いに移り合う場合、次のような関係が成り立つことを示した。
左辺の「量子的な重力場と物質」という物理系が、観測者の座標系を取り替える操作によって、右辺の「固定された古典的な重力場の中で物質側が重ね合わせ状態にある」という記述へと等価に変換されることを、この式は表している。
重力そのものが量子的な重ね合わせ状態になくとも、通常の古典的な重力場の中で「試験」となる粒子側が位置の量子重ね合わせにあれば、同じ物理的予測を再現できてしまう。結果として、重力によるもつれが観測されたという一つの現象に対し、「重力が量子的である」という解釈と「重力は古典的だが粒子が量子的である」という二つの等価な解釈が存在することが判明したのである。
相対性が暴くデコヒーレンスの正体
重力源に合わせて観測者も動く
研究チームの発見は、アインシュタインが築いた一般相対性理論の根幹にある「一般共変性原理」を、量子的な重ね合わせ状態へと拡張したことによって得られた。一般共変性原理とは、静止している観測者から見ても、加速している観測者から見ても、物理法則はどのような座標系(視点)から記述しても同じ形式を保たなければならないという大原則だ。一般相対性理論において、重力場とは時空の歪みそのものであり、座標系を選択するということは、その歪んだ時空をどのような網の目で測るかを選択することに等しい。
重力源となる質量が、空間の「右」と「左」の重ね合わせ状態にある場面を考える。質量が右にあれば時空は右側に歪み、左にあれば左側に歪む。質量が生み出す重力場も「右に歪んだ時空」と「左に歪んだ時空」の重ね合わせになる。これまでは、この重力場の重ね合わせこそが、紛れもない量子重力の証拠だとされてきた。
ここで観測者の立ち位置(座標系)自体を、質量の位置に合わせて移動させる変換を行う。重力源が右にある世界では観測者も右へ、左にある世界では観測者も左へ移動する座標系をとるのだ。重ね合わせの各成分間の違いが純粋に座標変換で記述できる場合、系全体を一つの固定された古典的時空の上で記述し直すことができる。時空自体は全く重ね合わせになっておらず、ただ固定された時空の中で、試験粒子や観測者の側が量子的ゆらぎを持っているだけ、という見方に完全に変換できてしまう。
デコヒーレンスは絶対的な現象ではない
論文の中で研究チームは、この枠組みを「重力源のデコヒーレンス問題」にも適用した。デコヒーレンスとは、量子的な重ね合わせ状態が外部環境との相互作用によって崩壊し、古典的な状態へと移行する現象を指す。重力源が重ね合わせにあることによって引き起こされる周辺環境のデコヒーレンスもまた、絶対的な物理現象ではない。空間的な重ね合わせに物理的な意味を与える外部のシステム(時計や物差しとしての参照系)が存在して初めて相対的に生じる現象に過ぎないことを明らかにした。観測対象と基準となる枠組みの境界をどこに引くかによって、現れる物理現象の顔が変わるのである。
座標系に依存しない「真の量子重力」を求めて
私たちは何を証明したことになるのか
この発見は、従来の卓上実験の提案を無に帰すものではない。得られる実験結果に対して、私たちが何を証明したことになるのかという解釈の限界を明るみに出したのだ。
| 比較項目 | 従来の定説(2017年以降の提案) | 本研究が提示した新枠組み |
|---|---|---|
| 重力もつれの解釈 | 重力場が量子的である決定的な証拠 | 2つの等価な解釈(量子重力 / 古典重力+量子粒子)が可能 |
| 背景時空の扱い | 重ね合わせ状態にあると仮定 | 単一の固定された古典的背景として再記述可能 |
| 実験設計への示唆 | もつれを観測できれば検証完了 | 座標変換で消去できない真の量子効果の特定が必要 |
これまでの提案の多くは、暗黙のうちに特定の座標系や外部の参照系に依存した仮定を置いていた。ある視点からは重力の量子効果に見える現象が、別の視点からは粒子の量子効果として説明できてしまうのであれば、それは量子重力理論の独立した証拠とは呼べない。
視点を超えた証拠の条件を探る
九州大学のフー・ジョシュア准教授は「重力の量子的な性質を検証する前に、まず、それを発見したことを証明する証拠が何であるかを把握する必要がある」と指摘する。本研究は、まさにその証拠の条件を厳格に再定義する試みである。
重力と量子力学がどのように結びついているかを理解することは、現代の物理学において最も深い探求の一つだ。重力の量子的な性質を証明するためには、座標の取り方という人間の恣意的な選択に左右されない、自然界の本質的な条件を特定しなければならない。
どの観測結果であれば、古典的な重力の記述と、真に量子的な重力の記述を区別できるのか。座標変換という視点の変更を施してもなお、決して消去することのできない重力固有の量子効果は、どのような条件で現れるのか。理論と実験が交差するテーブルトップの舞台で、物理学者たちは今、より精緻な自然への問いかけ方を模索している。
