新しい大規模言語モデルが出るたびに「あらゆる指標で世界最高」を謳う発表が続き、その言葉をどこまで信じればよいか分からなくなった方は多いはずだ。Tencentが2026年7月6日に公開した推論モデルHy3は、そうした空気に逆行する数字を自ら並べた。コーディング評価では競合GLM-5.2に6.2点差をつけられて明確に負けを認め、検索・エージェント評価ではGPT-5.5にわずか0.2点差まで迫ったのだ。全部に勝とうとしない設計判断こそが、実務で使えるAIエージェントの条件を映し出している。
MoEアーキテクチャで2950億パラメータ、Hy3の仕様と地域制限撤廃
Tencent Hunyuanチームは2026年7月6日、ハイブリッド型推論モデルHy3の正式版をリリースした。高速な応答と低速なじっくり型の思考を統合したアーキテクチャで、MoE(Mixture of Experts、専門家混合)構成により総パラメータ2950億のうち実際に稼働するアクティブパラメータは210億にとどまる。最大256Kトークンのコンテキストに対応し、長文の技術文書や複数ファイルにまたがるコード解析も一括で処理できる。
ライセンスはApache 2.0で、商用利用を含め改変・再配布に制限がない。2026年4月23日に公開されたプレビュー版はEU・英国・韓国向けの利用に制限が課されていたが、この地域制限は正式版で撤廃された。プレビュー版公開後の3か月足らずで、WorkBuddy上でHy3を選ぶ利用者数は6倍に増え、平均日次トークン消費量は20倍に伸びたとTencentは明らかにしている。正式版はこの伸びを追い風に、地域制限のないグローバル公開へ踏み切った。
半年足らずでの再構築を導いたYao Shunyuの経歴
Hy3の開発を率いたのはYao Shunyuである。元OpenAI研究者で、同社の自律型エージェント製品Operator(オペレーター)とDeep Research(ディープリサーチ)の中核開発を担った人物だ。現在はTencent社長のMartin Lau直属のチーフAIサイエンティストとして、大規模言語モデル部門のHunyuanとAI基盤部門を兼務で率いている。
インフラの再構築は2026年1月下旬に始まった。4月23日にプレビュー版を公開し、7月6日の正式版リリースまでを合わせても6か月に満たない期間で、モデルの再設計と基盤刷新を完了させたことになる。旧世代のHunyuanが抱えていた課題を作り直す規模の再構築を、これだけの短期間で仕上げた例は同業他社でも多くはない。
Yao Shunyuは2026年6月5日、Tencent CloudのAI産業応用サミットで「AIは長期戦であり、レースの後半戦がまさに始まったところだ」と述べている。さらに「マルチモーダルAIや身体性を持つAI(エンボディドAI)など、まだ満たされていない兆ドル規模の市場が絶えず生まれてくるはずだ」とも語った。Hy3の設計は、この発言が示す長期志向と表裏一体にある。全領域の即時制覇を狙わず、勝てる市場から着実に積み上げる発想が、Hy3のベンチマーク結果にそのまま表れている。
コーディングは譲り検索で互角、Hy3が選んだ勝てる戦場
Hy3のアクティブパラメータは210億で、VentureBeatはこれをGLM-5.2の同部分のおよそ半分の規模だと報じている。この関係を数式に置き換えると、210億に2を掛けた420億程度がGLM-5.2のアクティブパラメータの推定値になる計算だ。総パラメータ2950億のうち実際に計算に使われるのはわずか7.1%であり、残り9割超は特定のタスクでのみ呼び出される専門家ネットワークが占める。
推論1回あたりに動く重みの量がGLM-5.2のおよそ半分で済むということは、同じ応答を返すために必要なGPUの演算量・メモリ帯域もほぼ半分で足りる計算になる。運用コストの土台となるのはこの演算量であり、後述する価格の安さは会計上の値引きの結果ではない。パラメータ設計そのものが生み出した構造的な安さだと読める。
コーディング能力を測るSWE-bench Verifiedでは、Hy3が78.0点にとどまり、GLM-5.2の84.2点に6.2点差をつけられた。コーディング領域では、GLM-5.2に加えてAlibabaのコーディング特化モデルQwen 3.7 Maxも高スコアを維持しており、複数の競合がひしめく。大規模なリポジトリを横断する複雑な実装作業では、Hy3は規模で譲った分だけ性能でも譲る格好になっている。
一方、検索・ツール活用系のベンチマークでは様相が変わる。ウェブ検索を伴う複合タスクを測るBrowseCompでHy3は84.2点を記録し、フラッグシップ級のGPT-5.5が出した84.4点との差はわずか0.2点だった。複数ステップの情報収集を測るDeepSearchQAでも91.0点に達している。規模で劣るモデルが、検索・エージェント領域では最上位モデルとほぼ並んだことになる。
実際の料金表にも、この構造的な安さがそのまま数字として出ている。Tencent Cloud上の利用料金は入力100万トークンあたり1元(0.15ドル、約24円)、出力100万トークンあたり4元(0.59ドル、約96円)で、キャッシュが効く入力はさらに0.25元(1ドル=161.87円換算で約6円)まで下がる。WorkBuddy内のエージェントタスク解決率はプレビュー版の72%から正式版で90%に向上し、処理時間は平均34%短縮したと報じられている。ハルシネーション率もプレビュー版の12.5%から正式版で5.4%へ、複数ターン対話での意図ずれ率も17.4%から7.9%へ改善した。
コーディングで一歩譲り、検索・エージェントと低コストで勝負する。この配分は勝てる領域を選んで戦力を集中させた結果だと読める。同じ判断は統合先の顔ぶれにも表れている。WorkBuddy/CodeBuddy、Yuanbao、Marvis、ima、WeChat公式アカウント、そしてゲーム「Path of Exile: Advent」まで、Hy3が組み込まれた先はいずれも実務や日常利用のツールであり、対話そのものを商品にするサービスではない。
9日後に消える擬人化AI、対照をなす業務特化戦略
Hy3が正式リリースされてからわずか9日後、中国では対照的な動きが起きている。2026年7月15日に施行される新規制「AI擬人化対話サービス管理暫定弁法」を受け、ByteDanceのDoubaoとAlibabaのQwenは人格を模倣する対話型AIエージェント機能の提供を停止する。恋人や友人を演じるキャラクター型AIが、規制によって一斉に姿を消すことになる。
ここで区別しておく必要があるのは、規制の対象がコンパニオン型・擬人化型のエージェントに限られる点だ。Hy3が組み込まれるWorkBuddyやCodeBuddyは、コードを書く、資料を作る、検索して調べるといった業務遂行を目的とするエージェントであり、人格を演じるキャラクター機能とはカテゴリが異なる。同じ「AIエージェント」という言葉を掲げていても、規制が狙いを定めているのは業務代行型ではなく擬人化型の方だ。
この分岐で得をするのはTencentである。WorkBuddy/CodeBuddyやYuanbaoといった自社エコシステムへの統合に加え、Apache 2.0ライセンスによる公開はオープンソース開発者コミュニティの取り込みにもつながる。損をする側は二重にいる。コーディング性能で優位を築いてきたZhipuのGLM-5.2は、検索・エージェント領域でHy3に肉薄されたことで差別化の軸を狭められた。そしてByteDanceとAlibabaは、規制によって擬人化エージェントという事業領域そのものからの撤退を強いられている。
実務を解けるかどうかが、AIエージェントの生死を分ける
Hy3が示したのは、対話の自然さを競う土俵から意図的に降りるという選択だ。コーディングで6.2点差の劣後を認め、検索・エージェントで最上位モデルに0.2点差まで迫る配分は、全方位で勝つ体力がない開発チームが下した現実的な判断である。そしてその判断は、9日後に規制で退場した擬人化エージェントとは異なる土俵に立っている。
人格を演じるAIは規制の管轄下に置かれ、業務を代行するAIは管轄の外側にある。この境界線は今後、中国以外の市場でも引かれていく可能性が高い。タスクを解く能力で評価されるエージェントは、対話の魅力で評価されるエージェントより規制の影響を受けにくい構造を持つからだ。GLM-5.2やQwen 3.7 Maxがコーディング性能の競争を続ける一方で、Tencentが検索・エージェント・低価格に的を絞ったのも、この構造を見越した布陣だと考えられる。
その布陣を裏付けるのが、Hy3の統合先が一貫して「仕事の道具」に偏っている点だ。WorkBuddy/CodeBuddyは資料作成やコーディング支援、Yuanbaoは検索・調査、Marvisとimaは業務コミュニケーション、WeChat公式アカウントは企業アカウント運用の効率化に使われる。いずれも利用者が特定のタスクを終わらせるために起動するツールであり、雑談や関係構築そのものを目的にはしていない。ゲーム「Path of Exile: Advent」への統合だけは毛色が違うように見えるが、プレイヤー支援や攻略補助といった実務寄りの用途である点は他の統合先と変わらない。
Hy3の日本での提供状況や国内企業の採用実績、日本語圏での評価はいずれも現時点で確認できていない。価格だけを見れば入力100万トークンあたり約24円という水準は、国内の開発者にとっても検討材料になり得る規模だ。半年足らずで作り替えられたモデルが、次の半年でどこまで実務の現場に食い込むかが、実務特化型エージェントというカテゴリー全体の試金石になる。