情報を消去すると、必ず熱が発生する──。この「ランダウアーの原理」が、多数の粒子が複雑に絡み合う「量子多体系」において、ついに実験的に検証された。TUウィーン工科大学を中心とする国際研究チームが、物理学と情報科学の根源的な結びつきを解き明かし、未来の量子コンピューター開発に重要な光を投じる。この成果は、学術誌『Nature Physics』に掲載された。
デジタル世界の「ゴミ箱」に隠された物理法則:ランダウアー原理とは
我々が日常的に行うパソコンのデータ削除。このありふれた行為が、宇宙の根本法則に支配されていると聞いたら、あなたはどう思うだろうか。1960年代、物理学者Rolf Landauerは、一見無関係に見える「情報」と「熱力学」の間に、深い繋がりがあることを見抜いた。
彼が提唱したランダウアーの原理とは、「情報を削除する(忘れる)という行為は、決して無償では行えない」というものだ。具体的には、1ビットの情報を消去するには、最低でも kBTln2 という量のエネルギーが熱として環境に放出される必要がある。
ここで、
- kB はボルツマン定数(物理学の基本的な定数)
- T は環境の絶対温度
- ln2 は2の自然対数(約0.693)
これまでの研究は、主に古典的なコンピューターや情報処理システムの文脈でこの原理を検証してきた。しかし、量子コンピューターが現実のものとなりつつある現代において、このランダウアーの原理が、より複雑な「量子多体系」においてどのように機能するのかは、基礎科学の未解決の問いとして横たわっていた。情報が量子的な性質を持つとき、その「忘却の代償」はどのように現れるのだろうか?
この長年の疑問に、オーストリアのウィーン工科大学(TU Wien)を筆頭に、ドイツのベルリン自由大学(Freie Universität Berlin)、カナダのブリティッシュコロンビア大学(University of British Columbia)、ギリシャのクレタ大学(University of Crete)、イタリアのパヴィア大学(Università di Pavia)からなる国際共同研究チームが挑んだ。彼らは、超冷原子を用いた精巧な「量子場シミュレーター」を駆使し、量子多体系におけるランダウアー原理を実験的に検証する新しいアプローチを開発。その成果は『Nature Physics』に発表され、情報と熱、そして量子物理学の間に横たわる深遠な関係性を、これまでになく明確に示したのである。
なぜ「複雑な系」での検証が重要だったのか?
古典コンピューターが0か1かの明確な状態で情報を扱うのに対し、量子コンピューターは0と1が重ね合わさった、いわば曖昧な状態で情報を保持する。この「重ね合わせ」や「もつれ」といった量子特有の現象を利用することで、従来のコンピューターとは比較にならない計算能力が期待されている。
しかし、この量子的な情報は非常に繊細だ。環境との僅かな相互作用によって情報は容易に失われ(これを「デコヒーレンス」と呼ぶ)、計算エラーの原因となる。これは、物理学的に見れば、量子システムが持つ情報が環境へと「漏洩」し、不可逆的に「忘れ去られる」過程に他ならない。
この情報の「忘却」プロセスこそ、ランダウアー原理が支配する領域だ。したがって、量子コンピューターの性能を極限まで引き出すためには、この複雑な量子多体系における情報とエネルギーのやり取りを正確に理解することが不可欠となる。今回の研究は、そのための確かな足がかりを築いたという点で、極めて画期的なのである。
フライエ大学ベルリンの理論物理学者であり、本研究の責任著者であるイェンス・アイザート教授は、「情報と熱力学の概念が深く絡み合っていることは古くから認識されていました。ボルツマンやギブスといった先駆者たちの洞察から始まり、シャノンの情報理論によって豊かになったこの理解は、情報が熱力学系の振る舞いを支配するという核心に至ります」と語る。今回の実験は、その核心を量子レベルで直接的に捉えようとする試みであった。
実験の舞台裏:絶対零度の原子雲が描き出す量子宇宙
この難解な検証を可能にしたのは、TUウィーン工科大学のイェルク・シュミートマイヤー教授が率いるチームが開発した、最先端の実験プラットフォームだ。
研究チームは、「アトムチップ」と呼ばれる特殊なチップを用いて、数千個のルビジウム原子を絶対零度(-273.15℃)に限りなく近い超低温状態まで冷却した。この極低温下では、原子は個々の粒子としての振る舞いを失い、「ボース=アインシュタイン凝縮」という、全体が一つの巨大な波のように振る舞う不思議な量子の状態になる。
実験では、この原子の雲(凝縮体)を2つ用意し、トンネル効果で弱く結合させた。この系は、素粒子物理学の基本的なモデルである「クライン=ゴルドン場」を模擬する、一種の量子シミュレーターとして機能する。
研究チームは、この系に対して「グローバル質量クエンチ」と呼ばれる操作を行った。これは、系全体の結合の強さを急激に変化させることで、システムを意図的に安定した状態(平衡状態)から不安定な状態(非平衡状態)へと突き落とす操作だ。想像してみてほしい。穏やかな水面に突如として石を投げ込むように、量子的な場に急激な変化を与えるのだ。
このクエンチによって、系は時間とともに変化し、元々持っていた情報を環境(この場合は、系全体のうち観測対象としなかった部分)へと失っていく。この情報の喪失過程、すなわち「忘却」のプロセスを、研究チームは精密に追跡した。
見えない情報を暴く「動的トモグラフィ」という名の鍵
しかし、量子の世界の情報を正確に測定するのは至難の業だ。そこで研究チームは、「動的トモグラフィ再構成法」という独創的な手法を駆使した。
これは、通常は同時に測定できない量子の異なる性質を、システムの時間の経過に伴う変化を丹念に観測することで、間接的に再構成する技術である。まるで、ある人物の異なる角度からのスナップショットを何枚も集め、それらを組み合わせることで3Dモデルを作り上げるかのように、研究チームは量子場の完全な状態を再構築することに成功した。
この技術的ブレークスルーによって、エントロピーや量子相互情報量といった、情報と熱力学を結びつける重要な物理量を、実験的に定量化することが初めて可能になったのだ。
観測された「情報の死」とエネルギーの流れ:量子場のさざ波を読み解く
実験の成功を語る上で最も重要なのは、研究チームが「何を」「どのように」観測し、それが理論とどう一致したかという点だ。彼らが追跡したのは、単なる温度変化ではない。それは、情報の喪失という抽象的な概念を、測定可能な物理量へと翻訳した、見事な知的探求の成果だった。
研究の核心は、一般化されたランダウアー原理として知られる関係式 ΔΣ = ΔI + ΔD の検証にある。この式は、プロセスの不可逆性(もはや元には戻れない度合い)を示す「総エントロピー生成(ΔΣ)」が、二つの異なる要素の和で表されることを示している。
- ΔI(量子相互情報量の変化) – 情報の「漏洩」そのもの:
これは、今回の研究で最も注目すべき項だ。物理学的には、観測対象である「システム」と、それを取り巻く「環境」との間に存在する相関(量子もつれを含む)が、時間とともにどう変化したかを示している。
クエンチ操作(量子場に衝撃を与える操作)が行われる前、システムと環境は比較的独立している。しかし、衝撃が与えられると、両者は相互作用を始め、もつれ合っていく。システムが単独で保持していた純粋な情報は、もはやシステムだけのものではなくなる。それは環境と共有され、両者にまたがる「相関」という形に姿を変えるのだ。これこそが、情報が環境へと「漏洩」していく実体であり、「情報の死」あるいは「忘却」の量子的プロセスそのものである。実験では、このΔIが時間とともに増大していく様子が、明確に捉えられた。 - ΔD(相対エントロピーの変化) – 環境の「乱れ」:
もう一つの項ΔDは、環境が理想的な熱平衡状態からどれだけズレているかを示している。もし環境が無限に大きく、何が起きても動じない完璧な「熱の貯蔵庫」であれば、この項は無視できるかもしれない。しかし、現実の実験系では環境もまた有限であり、システムとの相互作用によってその状態はダイナミックに変化する。この項を測定することで、研究チームは環境自体の「乱れ」や状態変化も精密に追跡した。
物理的描像:「準粒子」が運ぶ情報の波紋
この複雑な現象を直感的に理解するために、研究チームは「準粒子描像」というモデルを提示している。
想像してほしい。静かな湖面のような量子場に、クエンチという石が投げ込まれる。すると、その点からエネルギーを持った「さざ波」、すなわち「準粒子」のペアが生成され、光速で反対方向へと伝播していく。
この実験では、原子の雲全体(湖)を、観測対象の「システム」と「環境」という二つの領域(湖に引かれた一本の線)に分割した。ΔI、すなわちシステムと環境の相関が増加していく過程は、この準粒子のペアがシステムと環境の境界線を横切り、両方の領域にまたがって存在するようになることで説明できる。まるで、湖に広がった波紋が境界線を越えていくように、情報(相関)がシステムから環境へと染み出していくのだ。
この描像に基づいた理論計算と、実際の実験で得られたデータは、論文のグラフ(Figure 2, 3)が示す通り、驚くほど高い精度で一致した。これは、この難解な量子多体現象の根底に、準粒子という比較的シンプルな物理描像が隠されていること、そして何よりも、情報と熱力学を結びつけるランダウアーの原理が、この複雑な量子の世界でも普遍的に成り立っていることの強力な証明となったのである。
この発見が拓く未来:量子コンピュータの「設計図」を書き換える
この基礎研究の成果は、単に物理学の教科書に新たな一行を書き加えるに留まらない。それは、未来の量子テクノロジー、とりわけ量子コンピューターの性能を根底から変えうる、新しい「設計思想」の種を宿している。
- 量子コンピュータの「熱問題」への根本的アプローチ
現在の量子コンピュータが直面する最大の課題の一つが「熱ノイズ」だ。量子ビットは極めて繊細で、周囲の僅かな熱の揺らぎによって、保持している情報を失ってしまう(デコヒーレンス)。これまでは、この問題に対して巨大な冷凍機で極低温に冷却するという、いわば力任せのアプローチが主流だった。
しかし今回の研究は、量子計算(=情報の書き換えや消去)に伴う熱発生の起源を、ΔIやΔDといった情報理論の言葉で定量的に解き明かした。つまり、「なぜ、どこで、どれだけの熱が発生するのか」という根本原因を、情報の流れとして追跡する道筋をつけたのだ。
これにより、将来の量子プロセッサ開発において、単に全体を冷却するだけでなく、回路設計の段階から「情報の流れ」を最適化し、熱の発生そのものを最小限に抑える「熱力学的に効率の良い」デザインが可能になるかもしれない。これは、量子コンピュータのエネルギー効率を飛躍的に高め、安定性を向上させるための、全く新しいアプローチとなりうる。 - より「賢い」量子エラー訂正アルゴリズムへ
量子計算にエラーはつきものだ。このエラーを訂正する「量子エラー訂正」は不可欠な技術だが、現状では一つの情報を守るために多数の補助量子ビットを必要とするなど、システムを極めて大規模かつ複雑にしてしまうという課題がある。
今回の成果は、エラーが発生するプロセス、すなわち情報が失われる過程を、システムと環境の相関(ΔI)の増大として捉えることを可能にした。これは、エラーという「情報の漏洩」が、どのような経路を辿って発生するのかを特定する手がかりとなる。この知見を活用すれば、やみくもにエラーを訂正するのではなく、エラーが発生しやすい情報の流れを予測し、より少ないリソースで効率的に訂正を行う「賢い」アルゴリズムの開発に繋がる可能性がある。エラーを力ずくで抑え込むのではなく、熱力学的な情報の流れを読んで先回りする、洗練された戦略だ。 - 情報で動く「量子熱機関」の創出
さらに未来を見据えれば、この研究は「量子熱機関」という、全く新しいデバイスの創出に繋がる可能性を秘めている。今回の実験プラットフォーム自体が、熱と情報を自在に操るマシンのプロトタイプと見なせるからだ。
論文の結論部では、この可能性について次のように示唆されている。「ランダウアー消去を、ある領域のエントロピーを減少させるメカニズムとして利用し、それによって効果的な冷却機構として機能させることが可能になるかもしれない」。
これは、まさに情報を「燃料」として使う究極の省エネ技術だ。例えば、量子プロセッサ内のある領域の不要な情報を意図的に「消去」する。その対価として放出されるエネルギーを利用して、別の重要な領域のエントロピーを下げ、局所的に「冷却」する。このような、SFの世界で描かれる「情報エンジン」や「量子版マクスウェルの悪魔」の実現に向けた、具体的な一歩となるかもしれない。
この研究は、物理学の最も根源的なレベルで「情報」を単なる記号ではなく、エネルギーと等価な「物理的資源」として捉え直すことの重要性を明確に示した。我々は、未来の量子テクノロジーを構築するための、新しい「設計図」を手に入れ始めたばかりなのである。
論文
参考文献
- Phys.org:
研究の要旨