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デンマーク「脱Microsoft」の真相:熱狂の「Linux移行」報道はなぜ修正されたのか?デジタル主権の理想と現実

Y Kobayashi

2025年6月29日

2025年6月、デンマーク政府が長年続いたMicrosoftとの関係に見切りをつけ、オープンソースソフトウェアへの歴史的な移行を開始した──当初、世界中のテクノロジーメディアは、このニュースをセンセーショナルに報じた。Windows OSまでもがLinuxに置き換えられるというこの「革命」は、しかし、わずか数日のうちに「Officeスイートのみの移行」へと静かに下方修正されることになる。

この一見些細な報道修正の裏には、欧州が国策として掲げる「デジタル主権」という壮大な物語と、それを実現する上で避けがたい現実との間の、深い溝が横たわっている。そしてこれは、国家のデジタルインフラの自律性を賭けた壮大な実験が、いかに理想と現実のバランスを取りながら進められているかを示す、象徴的な出来事なのだ。本稿では、このデンマークの決断を巡る情報の錯綜を紐解き、その背景にある地政学的力学、過去の失敗からの教訓、そして欧州全体の潮流を見ていこう。

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報道の熱狂と冷静な修正:何が「誤解」されたのか?

事の発端は、デンマークの地元紙『Politiken』が報じた、Caroline Stage Olsenデジタル担当大臣へのインタビューだった。この記事をきっかけに、多くの海外メディアが「デンマークデジタル担当省がWindowsとOffice 365を捨て、LinuxとLibreOfficeへ移行する」と一斉に報じた。

しかし、その数日後、状況は変化する。当初報じられた「WindowsからLinuxへの移行」は「誤解に基づくもの」であり、実際の移行対象はMicrosoft Office 365からオープンソースのオフィススイートであるLibreOfficeへの置き換えに限定される、という内容だった。

この「誤解」はどこから生まれたのだろうか。一つには、欧州で高まる「デジタル主権」への期待感が、一部メディアの勇み足、あるいは解釈の飛躍を生んだ可能性が考えられる。あるいは、省内のコミュニケーションとメディアへの伝達の過程で、何らかのニュアンスの齟齬があったのかもしれない。

いずれにせよ、この報道の揺り戻し自体が、極めて重要な示唆を含んでいる。それは、「脱Microsoft」というスローガンがいかにキャッチーで理想主義的に響くか、そして、その実行がいかに現実的な課題に満ちているか、という事実だ。デンマークの実際の計画は、革命的な一斉移行ではなく、極めて慎重で現実的な一歩を踏み出すことにあった。

デジタル主権という名の羅針盤:なぜデンマークは動いたのか?

では、なぜデンマークは、たとえOfficeスイートだけであっても、使い慣れたMicrosoft製品からの脱却という、いばらの道を選んだのか。その答えは、Olsen大臣が語った「デジタル主権(digital sovereignty)」という言葉に集約される。

Olsen氏は、「我々は、自らを少数の外国サプライヤーに依存させすぎてはならない。それは我々を脆弱にする」と語る。これは単なるコスト削減の話ではない。国家の根幹をなすデジタルインフラのコントロールを、自国の手に取り戻そうとする戦略的な決断なのである。

この背景には、無視できない地政学的リスクが存在する。

  • 米国の政治情勢への懸念: Donald Trumpが盛んに主張しているグリーンランド買収提案など、予測不能な米国の政治的動向は、デンマークに警鐘を鳴らした。『Politiken』の取材に対し、コペンハーゲン市の監査委員会議長Henrik Appel Espersen氏は、「政治的な対立が原因で、突然メールが送れなくなったり、内部コミュニケーションが取れなくなったりすれば、それは巨大な問題だ」と、その危機感を明確に表明している。
  • US Cloud Actの影響: 米国のクラウド法(Cloud Act)は、米国の法執行機関が、たとえデータが国外のサーバーに保存されていても、米国企業に対してデータ提出を要求できると定めている。EUの厳格なデータ保護規則(GDPR)との間に緊張関係を生んでおり、欧州各国の政府は、自国民や行政の機密データが米国の管轄下に置かれることを強く警戒している。
  • 市場支配への抵抗: コスト削減も副次的なメリットではあるが、本質はMicrosoftという単一企業への過度な依存、すなわち「ベンダーロックイン」からの脱却にある。

デンマークの首都コペンハーゲンと第二の都市オーフスが、すでに同様の方針を打ち出していたことも、今回の政府の決定を後押しした。これは、地方自治体レベルで始まった動きが、国策として結実した形と言えるだろう。

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慎重なる船出:ミュンヘンの「失敗」から何を学んだか

欧州の行政機関による「脱Microsoft」の試みは、今回が初めてではない。多くの関係者の脳裏には、ドイツ・ミュンヘン市の壮大な実験とその顛末が焼き付いている。

2004年、ミュンヘン市は「LiMux」と名付けたプロジェクトを開始し、市のPCをWindowsからLinuxベースの独自OSへ、OfficeスイートをLibreOffice(当時はOpenOffice.org)へと移行させた。しかし、この野心的な試みは、互換性の問題、職員の生産性低下、維持管理コストの増大といった数々の壁に突き当たり、約13年の歳月を経た2017年、ついにWindows環境への回帰が決定された。

デンマーク政府は、このミュンヘンの「失敗」から明らかに学んでいる。その証左が、Olsen大臣の現実的な姿勢に表れている。彼女は、「もし移行が複雑すぎることが判明すれば、我々は即座にMicrosoft製品に戻ることができる」と公言しているのだ。

これは、イデオロギーを優先して現実を見失った過去の轍を踏むまいという強い意志の表れだ。デンマークの計画は以下の点で、ミュンヘン時代よりも成熟していると言える。

  1. 段階的なアプローチ: まずはOfficeスイートに限定し、全職員を一度にではなく、6月から8月にかけて半数、9月から11月にかけて残りの半数と、段階的に移行を進める。
  2. 柔軟なバックアッププラン: 問題発生時には計画を固守せず、業務の継続性を最優先する。
  3. 現実的な目標設定: 当初から「完全なLinux化」という高いハードルを掲げるのではなく、まずは最も代替が現実的なオフィスソフトから着手する。

このプラグマティックな姿勢こそが、今回の挑戦の成功確率を、過去の事例よりも高めていると言えるかもしれない。

欧州に広がる「静かなる革命」:デンマークは孤立していない

デンマークの動きは、決して孤立したものではない。むしろ、欧州全体で進行する、巨大ITプラットフォーマーからの自立を目指す大きな地殻変動の一端と捉えるべきだ。

  • ドイツ・シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州: おそらく現在、最も急進的な取り組みを進めているのがこの州だ。約30,000人の行政職員のPCから、Microsoft Officeだけでなく、TeamsやOutlookも排除し、LibreOffice、Open-Xchange、Nextcloudといったオープンソース製品群に置き換える。最終的にはOSもLinuxへ移行する計画だ。同州のデジタル担当大臣Dirk Schrödter氏は、「We’re done with Teams!(我々はTeamsとはもう終わりだ!)」と宣言し、その強い決意を示している。
  • フランス: 国防総省が早くからUbuntu Linuxベースの独自OS「GendBuntu」を導入し、10万台以上のPCで運用しているほか、2022年には教育省が学校でのMicrosoft 365やGoogle Workspaceの無償版利用に懸念を表明。最近ではリヨン市もMicrosoft Officeからの移行を発表している
  • イタリア: 2015年に国防省が10万台以上のシステムでLibreOfficeを採用するなど、早くからオープンソース化に取り組んできた。

これらの動きは、国や地域によってアプローチの度合いは異なるものの、共通して「デジタル主権」という羅針盤を向いている。それは、自国のデータを自国の管理下に置き、技術的な選択の自由を確保し、地政学的なリスクから国家の機能を守るという、21世紀の国家戦略そのものなのである。

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理想の港を目指して:デジタル主権の航海は始まったばかり

デンマークの「脱Microsoft」を巡る一連の動き、とりわけ初期報道とその後の修正は、デジタル主権という目標がいかに複雑で、一直線には進まない道のりであるかを我々に教えてくれる。

熱狂的な「Linux革命」の報道は、多くの人々の理想を映し出す鏡だった。一方で、その後の「Officeのみ」への冷静な修正は、互換性、職員の習熟度、そして業務継続性という、組織運営における冷徹な現実を突きつける。

しかし、重要なのは「LinuxかWindowsか」という二元論的な対立ではない。本質的な問いは、「いかにして国家のデジタルインフラに対するコントロールを取り戻すか」であり、そのための最適解は、国や組織の状況によって異なるはずだ。

欧州連合(EU)のBart Groothuis欧州議会議員が「欧州は『米国クラウド』に問題を抱えている」と述べたように、地政学的な緊張とデータ主権への懸念は今後も高まる一方だろう。このような状況下で、デンマークのMicrosoftからの移行、そしてドイツ・シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州やフランスの動きは、単なるITベンダーの交代ではなく、国家のデジタルインフラのレジリエンス(回復力)と自律性を確保するための戦略的なシフトを意味する。

今回の報道修正は、オープンソース移行の現実的な困難さを再認識させた一方で、デンマークが柔軟な姿勢でこの挑戦に臨んでいることを示唆している。この動きが「デジタル主権」という大きな目標の現実的な一歩となるのか、それとも過去の失敗の轍を踏むのか。世界中の政府機関とテクノロジー業界が、デンマークの動向を注視している。


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