2025年、米国の空を統べる神経中枢、航空管制(ATC)システムが、ついに21世紀への扉を開こうとしている。驚くべきことに、この国の航空インフラの心臓部は、これまでMicrosoftが1995年にリリースした「Windows 95」や、今や博物館の展示品ともいえるフロッピーディスク、そして手書きもされる「紙のフライトストリップ」によって支えられてきた。この「動く化石」とも呼べるシステムが、相次ぐ障害と高まる危機感を背景に、数十億ドル規模の一大プロジェクトによって全面的に刷新されることが決定したのだ。
なぜ、世界最先端のテクノロジー企業を数多く抱える大国がこれほど旧式のテクノロジーに依存し続けてきたのか。そして、この野心的すぎるほどの近代化計画は、一体どのような困難に直面しているのか。
驚愕の現実:米国の空を支えてきた「20世紀のテクノロジー」
「我々の目標はシステムを置き換えること。もうフロッピーディスクも、紙のストリップもいらない」
米連邦航空局(FAA)の長官代行、Chris Rocheleau氏は2025年6月、米下院歳出委員会でそう明言した。この発言は、米国の航空管制の現場が、多くの人々が想像するハイテクなイメージとはかけ離れた現実にあることを浮き彫りにした。
米国の航空管制システムは、その複雑さと安全性への絶対的な要求から、長年にわたり旧式の技術に依存してきた。管制塔やその他の施設に足を踏み入れると、まるで20世紀にタイムスリップしたかのような光景が広がっていたという。そこには、以下の様な旧式の技術が用いられていたのだ。
- Windows 95: 30年前に登場したオペレーティングシステムが、今なお管制システムの一部で稼働している。
- フロッピーディスク: データの転送やバックアップといった重要な役割を、この磁気ディスクが担ってきた。Sonyが最後のフロッピーディスクを製造したのは2011年のことである。
- 紙のフライトストリップ: 管制官は、便名、航空機の種類、高度といった重要な飛行情報を印字、あるいは手書きした厚紙の短冊を使い、航空機の動きを物理的に追跡してきた。
これらの技術は、一見すると冗談のように聞こえるかもしれない。しかし、この「20世紀で時が止まった」かのようなシステムが、毎日数万便のフライトの安全を、驚くべきことにこれまで維持してきたのもまた事実である。
なぜ近代化はこれほど遅れたのか?「止められない」システムの宿命
では、なぜFAAはこれほど長きにわたり、旧式システムの刷新に踏み切れなかったのだろうか。その理由は、単なる予算不足や怠慢では片付けられない、根深く複雑な構造的問題にある。
1. 「24時間365日」稼働のクリティカルなインフラ
最大の障壁は、航空管制システムが「決して止められない」ことにある。一般的なITシステムのように、夜間や週末にシステムを停止して新しいハードウェアに入れ替える、といった手法は通用しない。ひとたびシステムを止めれば、全米の空が大混乱に陥り、経済活動や人々の安全に計り知れない影響が及ぶ。
この難しさは、議会でのやり取りにも表れている。Hal Rogers議員が「古いシステムをオフにし、新しいものをオンにするだけでは?」と尋ねたのに対し、Tom Cole委員長が「彼らはあなたが飛んでいる間にそれをやるんですよ、Rogersさん」と冗談めかして応じた逸話は、このプロジェクトの本質的な困難さを物語っている。
2. 徹底された安全性と「壊れていないなら直すな」の論理
既存のシステムは、数十年にわたる運用実績の中で徹底的にテストされ、その安全性と信頼性が証明されている。新しいシステムを導入するには、この確立された安全基準をクリアする、あるいは上回ることを証明せねばならず、それには膨大な時間とコストがかかる。
ここに、「If it ain’t broke, don’t fix it.(壊れていないなら直すな)」という、クリティカルなインフラにありがちな保守的な思想が加わる。安定して稼働している限り、未知のリスクを伴う大規模な変更を避けるという判断は、ある意味で合理的だったのだ。
3. 維持費が新規投資を圧迫する「負のスパイラル」
元FAA長官のMichael Huerta氏は「根幹は金の問題だ」と指摘する。老朽化したシステムの維持には莫大な費用がかかる。元FAA最高執行責任者のDavid Grizzle氏によれば、設備予算の90%以上が古い機器の維持のために費やされ、新たな投資に回す余裕がほとんどなかったという。この負のスパイラルが、近代化をさらに遅らせる一因となっていた。
4. 政治的な障壁
近代化計画には、現在全米に21ヶ所ある高高度交通を管理する施設の統廃合も含まれる可能性がある。しかし、施設の閉鎖は地元の雇用に直結するため、選挙区に施設を持つ議員からの激しい政治的抵抗が予想される。技術や予算だけでなく、政治もまた近代化を阻む見えざる壁として存在しているのだ。
刷新への引き金:相次ぐシステム障害と高まる危機感

長年、綱渡りのような状態で維持されてきたシステムだが、その限界は近年、誰の目にも明らかになってきた。
- 2023年のFAAによる評価: FAA自身が、国内の航空管制システム138のうち、実に105のシステムが「維持不可能」または「維持不可能になる可能性」を抱えていると評価。うち40システムは導入から30年以上、6システムは60年以上が経過しているという衝撃的な内容だった。
- ニューアーク空港の混乱: 2025年春、ニュージャージー州のニューアーク・リバティー国際空港で、レーダーや通信システムの障害が頻発。古い銅線ケーブルの不具合などが原因とされ、何百ものフライトが遅延・欠航する事態となった。
- 2023年1月の全米運航停止: 運航に関わる重要な情報をパイロットに伝達する「NOTAM」システムのデータベースファイルが破損。これにより、米国内のすべてのフライトが一時的に離陸できなくなるという前代未聞の事態が発生した。
これらの深刻なインシデントは、もはや「だましだまし」では乗り切れないという危機感を政府、航空業界、そして国民の間に共有させ、近代化への強力な推進力となった。運輸長官のSean Duffy氏が「これは党派を超えた問題だ。誰もがやらなければならないと知っている」と語るように、ついに改革へのコンセンサスが形成されたのである。
「ポスト・フロッピーディスク」時代へのロードマップと立ちはだかる壁
こうした状況に対し、米国運輸長官のSean Duffyは、今回のシステム刷新プロジェクトを「数十年で最も重要なインフラプロジェクトだ」と位置づけている。航空業界全体もこの危機感を共有しており、航空管制官組合、航空会社、製造業者などの主要団体が「Modern Skies」という連合を形成し、近代化を強く推進してきた。彼らはテレビCMまで制作し、ポータブルカセットプレーヤーやレッグウォーマーといった1980年代の流行を懐かしむ映像を流しつつ、「40年後、フロッピーディスクが今も航空管制システムを動かしている」と警鐘を鳴らしたのである。
計画の鍵を握るのが、民間企業の活力だ。FAAはすでにRFI(Request For Information)を発行し、システム全体の構築を主導できる「インテグレーター」となる企業や、革新的な技術を持つ企業からの提案を募っている。
システム移行自体の技術的ハードルも極めて高い。航空管制システムは24時間365日、中断なく稼働し続けなければならない。そのため、旧システムを稼働させながら新システムを並行して構築し、段階的に切り替えていくという、非常に複雑なプロセスが求められる。また、新しいシステムは、国家の航空網を麻痺させる可能性のあるサイバー攻撃から守るため、最高レベルのセキュリティ要件を満たす必要がある。
さらに、この計画には政治的な壁も存在する。米国運輸省は、現在21存在する高高度交通管制施設を、わずか6つの新しい施設に統合することを提案している。これによりコスト削減と効率化を図る狙いがあるが、Michael Huerta氏も認めるように、各地域選出の連邦議会議員が自分の地区の施設廃止に強く抵抗することが予想され、政治的な対立は避けられないだろう。
レガシーシステムは世界中に:FAAだけの問題ではない現実
実は、こうした「動く化石」のようなレガシーシステムに依存しているのはFAAだけではない。世界中の重要インフラで、同様の事例が見られる。
- サンフランシスコの鉄道: 市の鉄道システムは、今なお5.25インチフロッピーディスクから起動するDOS上で稼働しており、更新は2030年まで予定されていない。
- ドイツ鉄道: 2024年に「Windows 3.11」の専門知識を持つ技術者の求人が出され、話題となった。
- 日本の行政: つい最近まで、政府機関への申請手続きなどでフロッピーディスクの使用が義務付けられていたが、2024年にようやく廃止された。
これらの事例は、一度社会に深く根付いた技術を置き換えることの難しさを物語っている。皮肉なことに、2024年に世界中のモダンなPCをフリーズさせた「CrowdStrikeインシデント」のような障害を、FAAの古いシステムは受けなかったかもしれない。しかし、それはもはや慰めにはならない。老朽化によるリスクは、外部からの攻撃とは別の形で、確実にインフラを蝕んでいたのだ。
米国の空の未来は今、この壮大な刷新計画の成否にかかっている。数十年にわたる技術的停滞を乗り越え、真の21世紀の航空管制システムを構築できるのか。それは単なるテクノロジーの更新ではない。国家の威信と、毎日空を飛ぶ数百万人の安全を賭けた、長く険しい挑戦の始まりなのである。
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