日本でも英和辞典で知られるCollins Dictionaryは2025年の「Word of the Year(今年の言葉)」に「vibe coding(バイブコーディング)」を選出したと発表した。この言葉は、人工知能(AI)に対して自然言語で指示を与えることでコンピュータープログラムを生成するという、ソフトウェア開発における革命的な変化を捉えている。しかし、この選出が示すのは単なる技術トレンドではない。同時に最終候補リストに選ばれた「clanker(クランカー)」、「broligarchy(ブロリガルキー)」、「aura farming(オーラ養成)」といった言葉たちは、AIが社会に浸透する中で私たちが直面している期待、不安、そして自己演出と真正性の間で揺れ動く現代社会の複雑な様相を映し出す鏡となっている。本稿では、これらの言葉を詳細に読み解き、2025年という時代が持つ多面的な意味を深く分析する。
「バイブコーディング」とは何か? コーディングの未来を塗り替える概念
2025年を象徴する言葉として選ばれた「バイブコーディング」は、一見すると技術的な専門用語に聞こえるかもしれない。しかしその本質は、人間とコンピューターの関係性を根本から変えうる、極めて大きなパラダイムシフトを示唆している。
定義:プログラミングの「民主化」
「バイブコーディング」とは、具体的には「自然言語によるプロンプトを用いて、AIにコンピューターコードの作成を支援させること」を指す。Collins Dictionaryの解説によれば、これは「 painstakingly coding it yourself(骨の折れるコーディングを自分で行う)」のではなく、「telling a machine what you want(機械に何が欲しいかを伝える)」行為である。
例えば、「私の今週の食事メニューを計画してくれるプログラムを作って」とAIに話しかけるだけで、基本的なアプリケーションの骨格が生成される。これまでは専門的なプログラミング言語の知識と、厳格な構文ルールに従うスキルが不可欠だったソフトウェア開発の領域に、アイデアさえあれば誰もが足を踏み入れられるようになる可能性を秘めているのだ。これは、プログラミングという専門技能の「民主化」とも言えるだろう。
提唱者Andrej Karpathyのビジョン:「コードの存在を忘れる」世界
この言葉は、2025年2月にAI研究の第一人者であるAndrej Karpathy氏によって提唱された。彼はTeslaのAIディレクターを務め、OpenAIの創設メンバーでもある、まさに現代AI革命の中心人物の一人だ。Karpathy氏は、AIの進化によって開発者が「forget that the code even exists(コードの存在さえ忘れられる)」ようになり、「give in to the vibes(感覚、雰囲気、バイブスに身を任せる)」ことでプログラムを構築できる未来を描いた。
これは、開発者がロジックや構文の細部に囚われることなく、創造的なアイデアや実現したい「感覚・雰囲気(vibe)」そのものに集中できる世界を意味する。もちろん、複雑で堅牢なシステムを構築するには依然として高度な専門知識が必要であり、AIが生成したコードが常に完璧である保証はない。しかし、アイデアを形にするための初期段階のハードルを劇的に下げるインパクトは計り知れない。
Collins Dictionaryが選んだ理由
Collins DictionaryのマネージングディレクターであるAlex Beecroft氏は、「バイブコーディング」の選出理由について、「言語がテクノロジーと共にどう進化するかを完璧に捉えている」と述べている。そして、「AIがコーディングをよりアクセスしやすいものにしている、ソフトウェア開発における大きな変化を示している。人間の創造性と機械知能のシームレスな統合は、自然言語がいかに我々のコンピューターとの対話を根本的に変えているかを示している」と評価した。
2023年に「AI」そのものが同辞書の今年の言葉に選ばれたことを踏まえれば、「vibe coding」の選出は、AIが概念的な存在から、私たちの創造性や生産性に直接的に関与する具体的なツールへと進化したことを象徴していると言えるだろう。
AIへの期待と抵抗:リストに映るテクノロジーとの複雑な関係
「バイブコーディング」がAIとの協調という明るい未来像を描く一方で、今年の最終候補にはテクノロジー、特にAIに対する社会の複雑な感情を反映した言葉が並んでいる。それは単純な賛美ではなく、警戒、不信、そして権力への懸念が入り混じったものだ。
影:「clanker」という蔑称の流行
「clanker(クランカー)」は、コンピューター、ロボット、あるいはAIに対する侮蔑的な用語である。もともとは「スター・ウォーズ」シリーズで使われていた言葉だが、2025年に入り、AIチャットボットや自動化システムへの不満や不信感を表明する言葉としてSNS、特にTikTokで急速に拡散した。
人々がAIに対して「clanker」という言葉を使うとき、そこにはエントリーレベルの仕事や創造的な機会がAIに奪われることへの不安が込められている。これは単なるジョークやミームではなく、急速な技術進化に対する一般市民の抵抗と、人間性の喪失への恐れが表出した社会現象と分析できる。AIとの共存が語られる一方で、それを「ガラクタ」と揶揄することで心理的な距離を保とうとする人々の防衛機制が働いているのではないだろうか。
権力:「broligarchy」の台頭
「broligarchy(ブロリガルキー)」は、「bros(仲間、兄弟)」と「oligarchy(寡頭制)」を組み合わせた造語である。これは、Elon Musk、Jeff Bezos、Mark Zuckerbergといった、ごく少数の裕福な男性テック企業経営者たちが握る、過大な政治的・社会的影響力を批判的に指す言葉だ。2025年のDonald Trump米大統領の就任式に彼らが著名なゲストとして出席したことで、この言葉の使用頻度は急増した。
「broligarchy」は、テクノロジーの進化がもたらす富と権力が、シリコンバレーを中心とした特定の男性エリート層に極端に集中しているという現代社会の歪みを鋭く指摘する。彼らの意思決定一つが、言論の自由、市場経済、さらには民主主義のあり方そのものに影響を及ぼすことへの社会的な懸念が、この言葉には凝縮されている。テクノロジーがもたらす恩恵の裏で、新たな権力構造が静かに、しかし確実に形成されつつあることへの警鐘と言えるだろう。
「見せかけ」の時代:生産性と自己演出を巡る言葉たち
テクノロジーが社会の構造を変える一方で、私たちの働き方や自己表現の方法にも大きな変化が起きている。今年の shortlist は、生産性や個人の魅力が「見せかけ」や「演出」によって測られる現代の風潮を浮き彫りにしている。
職場の仮面:「taskmasking」の蔓延
「taskmasking(タスクマスキング)」は、職場で生産的であるかのような偽りの印象を与える行為を指す。具体的には、重要でないドキュメントを猛烈な勢いでタイピングする、目的の曖昧な会議をスケジュールに入れるといった行動が挙げられる。これは、2022年の「quiet quitting(静かな退職)」にも通じる現象であり、特にコロナ禍後のオフィス回帰の流れの中で、成果そのものよりも「働いているように見えること(presence)」が評価されることへの静かな抵抗と解釈できる。
この言葉は、現代の労働環境が抱える根本的な問題を突いている。従業員は、真の生産性よりも、多忙であるという「パフォーマンス」を求められていると感じている。これは、管理職と従業員の間の信頼の欠如や、仕事の成果を正当に評価する仕組みが機能していないことの現れかもしれない。
SNS時代のペルソナ:「aura farming」の本質
「aura farming(オーラ養成)」は、独特でカリスマ的なペルソナを意図的に作り出す行為を指す。その核心は「努力していないように見えるが、実際は全くそうではない」という点にある。あたかも自然体でクールであるかのように見せかけるため、周到な計画と努力が背後には存在する。この言葉は、インドネシアの少年がボートレース中に見せた落ち着き払ったダンスの動画がバイラルになったことをきっかけに、Z世代を中心に爆発的に広まった。
これは、SNSが日常となった現代における自己表現のあり方を象徴している。人々は、単に日常を記録するのではなく、他者からどう見られるかを意識し、自身の「オーラ」や「ブランド」を戦略的に構築する。「いいね」やフォロワーという数値化された評価を求めて、常に「見られる自分」を演出し続ける。この現象は、自己実現の新たな形であると同時に、絶え間ない自己監視と他者からの評価に疲弊する現代人の姿をも映し出している。
偽りの賞賛:「glaze」に見る真正性への渇望
「glaze(グレイズ)」は、誰かを過剰に、あるいは不当に褒めそやす行為を意味する。Z世代の間では「Stop glazing(おべっかを使うな)」というフレーズが、追従的な態度や中身のない賞賛を批判する際の常套句となった。
この言葉の流行は、「aura farming」が示す自己演出文化へのカウンターとして捉えることができる。人々が常に自分を良く見せようとし、他者を過剰に持ち上げる偽りのコミュニケーションにうんざりし、「リアル」な、つまり真正性のある関係性を渇望していることの現れである。
新しいライフスタイルと価値観の模索
激動する社会環境の中で、人々は自らの健康、経済、そして人生の過ごし方について、従来の価値観にとらわれない新しい方法を模索している。 shortlist には、そうした現代人の生き方の変化を捉えた言葉が並ぶ。
- biohacking(バイオハッキング): 健康や長寿を目的として、食事、睡眠、運動、さらにはサプリメントや最新テクノロジーを用いて自らの身体の自然なプロセスに積極的に介入する活動。自己最適化への関心が、一部の先進的な層から一般にまで広がりつつあることを示している。
- Henry(ヘンリー): 「High Earner, Not Rich Yet(高収入だが、まだ豊かではない)」の頭字語。高い収入を得ていながらも、学生ローン、高騰する住宅費や生活費、そしてライフスタイル維持のための支出によって、実質的な資産形成ができていない層を指す。これは、現代社会において高収入が必ずしも経済的な豊かさに直結しないという、富の新たな現実を示している。
- micro-retirement(マイクロリタイアメント): 伝統的なキャリアパスの途中で、数ヶ月から1年程度のまとまった休暇を取り、自己投資や個人的な興味の追求に時間を使うこと。燃え尽き症候群(バーンアウト)が社会問題化する中、特にZ世代やミレニアル世代を中心に、人生の喜びを老後に先送りしないという新しい価値観が広がっている。
- coolcation(クールケーション): 気候変動による夏の猛暑を避けるため、あえて涼しい気候の土地(例:北欧、スコットランドなど)を休暇先に選ぶ旅行スタイル。地球温暖化というマクロな問題が、個人のレジャーの選択というミクロな行動にまで影響を及ぼしていることを示す象徴的な言葉である。
2025年の言葉が映し出す現代社会の多面的な姿
Collins Dictionaryが選んだ2025年の「Word of the Year」とその最終候補リストは、単なる流行語のリストではない。それは、テクノロジーと人間社会が織りなす複雑なタペストリーであり、現代を生きる私たちが直面する根本的な緊張関係を映し出している。
そこには、AIによる創造性の解放(vibe coding)への期待と、AIに仕事を奪われ、人間性が損なわれることへの抵抗(clanker)という光と影がある。テクノロジーがもたらす富が一部に集中し、新たな権力構造を生むことへの懸念(broligarchy)もある。
私たちは、職場では生産性を演じ(taskmasking)、SNSではカリスマ性を演出し(aura farming)、偽りの賞賛(glaze)に囲まれながら、一方で自らの身体(biohacking)やキャリア(micro-retirement)を最適化しようと努めている。高収入を得ても豊かさを実感できず(Henry)、気候変動から逃れるように新たな安息の地(coolcation)を求める。
これらの言葉は、変化の潮流の中で適応し、時に抵抗し、あるいは新たな価値観を模索する現代人の姿そのものである。「バイブコーディング」が象徴するAIとの新たな関係は、私たちの未来をどこへ導くのか。その答えはまだ見えないが、2025年の言葉たちは、その行く先を考える上で極めて重要な示唆を与えてくれている。
Sources
- Collins Dictionary: Collins’ Word of the Year 2025: AI meets authenticity as society shifts



