Alliance for Open Media (AOMedia) が策定を主導する次世代ビデオコーデック「AV2」は、現在もドラフト仕様の段階にとどまっている。当初のロードマップでは2025年末のリリースを目標としていたものの、エンコーダの開発や仕様の詳細化において調整が続いており、正式な仕様の凍結には至っていない。このような状況下で、VideoLANの開発チームは数ヶ月間にわたる水面下での開発を経て、オープンソースのAV2 CPUデコーダ「dav2d」のソースコードをGitLabリポジトリ上で一般に公開した。

新しいビデオコーデックが市場に登場し、一般消費者の端末でシームレスに再生されるまでには、長大なリードタイムが存在する。標準仕様の確定後、半導体メーカーがハードウェアデコーダのIPを設計し、SoCに組み込み、最終製品として市場に流通するまでには数年の歳月を要する。この過渡期において、コーデックの普及を阻む最大の障壁が「再生環境の不在」である。dav2dは、この課題に対する明確な解答として位置付けられている。ハードウェアの支援が存在しない環境下においても、既存のCPUリソースを限界まで活用し、実用的なフレームレートでの映像再生を実現することが本プロジェクトの最大のミッションである。

dav2dは、前世代のAV1デコーダとして広く採用された「dav1d」の設計思想を深く継承している。dav1dは、その圧倒的なデコード速度とクロスプラットフォームへの適応力の高さから、主要なウェブブラウザやメディアプレイヤーにおけるAV1サポートの事実上の標準基盤となった。VideoLANはdav2dにおいて、dav1dで培われた知見と最適化のノウハウを再利用し、AV2エコシステムの初期段階から強固な基盤を構築する戦略を採っている。コード自体はすでに本番環境での利用に耐えうる品質で構築されているが、AV2の仕様自体が未確定であるため、現時点でのプロダクション導入は推奨されていない。

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コンパイラの限界を超える徹底したハードウェア最適化

ビデオデコーダのソフトウェア実装において、パフォーマンスの最適化は一般的なアプリケーション開発とは次元の異なるアプローチが要求される。高解像度かつ高ビットレートの映像ストリームをリアルタイムで復号するためには、CPUの限られた計算資源とメモリ帯域を極限まで効率的に利用する必要がある。dav2dの開発ロードマップは、この技術的課題に対する具体的な最適化の道筋を示している。

現在進行中の初期フェーズでは、C言語によるデコーダの完全な実装、利用可能なAPIの設計、そして主要なオペレーティングシステムへの移植作業に主眼が置かれている。純粋なC言語とアセンブリ言語のみで構成されるコードベースは、依存関係を最小限に抑え、ビルドシステムの複雑性を排除することで、移植性と保守性を高めている。

真のパフォーマンス向上は、基礎実装の完了後に予定されているアーキテクチャ固有の最適化フェーズで実施される。現代のCコンパイラは高度な最適化能力を備えているものの、ビデオデコード処理のように1秒間に数十億回の演算が繰り返される特定のホットスポットにおいては、コンパイラの自動ベクトル化によるSIMD(Single Instruction, Multiple Data)命令の生成には限界がある。dav2dの開発チームは、プロセッサのアーキテクチャごとに手動でアセンブリコード(asm)を記述し、ハードウェアの性能を直接引き出す手法を採用している。

ロードマップには、プラットフォームと世代ごとの詳細な最適化計画が明記されている。デスクトップ環境向けにはAVX2および古いプロセッサ向けのSSSE3+命令セットを使用したアセンブリコードの記述が予定されている。同時に、計算資源に制約のあるモバイル環境向けには、ARMv8および旧世代のARMv7向けのアセンブリ最適化が計画されており、高ビット深度の処理においても十分なパフォーマンスを確保する。開発コミュニティでの検証によれば、特定の処理ブロックをインラインアセンブリ(例えばAVX-512命令)で記述した場合、コンパイラによる最適化や組み込み関数(Intrinsics)を用いた実装と比較して、キャッシュミスやブランチプレディクションの精度において劇的な性能向上が確認されている。将来的には、PPC、SSE2、RISC-Vといった多様な命令セットアーキテクチャへの対応や、可能な範囲でのGPUによるデコード処理のオフロードも視野に入れられている。

オープンエコシステムを加速させるライセンス戦略

dav2dプロジェクトにおいて特筆すべき点は、そのライセンス戦略である。VideoLANが管理する他の多くのプロジェクト(VLCメディアプレイヤーを含む)がGPL(GNU General Public License)などのコピーレフト型ライセンスを採用しているのに対し、dav2dは非常に制約の緩い「BSD 2-clauseライセンス」の下で公開されている。

この決定の背景には、AV2コーデックの普及を技術的および商業的な両面から強力に推し進める意図がある。BSDライセンスの採用により、開発者はdav2dのソースコードをクローズドソースの商用ソフトウェアや、オペレーティングシステムのカーネル空間で動作するドライバ内部に自由に組み込むことが可能となる。これにより、ハードウェアベンダーは自社のプロプライエタリなハードウェアアクセラレーション機能とdav2dのソフトウェアデコードを組み合わせた「ハイブリッドデコーダ」を構築しやすくなる。VideoLANは、リチャード・ストールマン(RMS)がOgg Vorbisのライセンスに関して述べた過去の議論を引き合いに出し、標準的なフォーマットを確立するためには、プロプライエタリなソフトウェアからの利用を制限するよりも、あらゆる環境での実装を促進することが最終的にオープンな技術の勝利に繋がるという思想を示している。

ただし、このライセンスはあくまでdav2dのソフトウェア実装に関する著作権等の利用条件を定めたものであり、AOMediaが保有するAV2規格に関する特許権の実施を許諾するものではない。AV2技術を商用利用するエンドユーザーや開発者は、AOMediaが提示する特許ライセンス条項に別途準拠する必要がある。

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エコシステム統合に向けた今後の展望

dav2dのソースコードが公開されたことは、AOMediaがAV2仕様の確定に向けた最終段階に入りつつあることを示唆している。しかし、dav2dがユーザーの手元で稼働する一般的なメディアソフトウェアに統合されるまでには、いくつかの重要なマイルストーンが存在する。

CES 2026において、VideoLANチームは次期メジャーバージョンである「VLC 4」上でAV2ビデオの再生デモンストレーションを実施し、基礎的な技術の確立を証明した。しかし、オープンソースのマルチメディアエコシステム全体において、新しいコーデックの採用が本格化するための鍵を握るのは「FFmpeg」フレームワークの対応である。FFmpegがAV2デコードの基盤としてdav2dを統合し、安定したAPIを提供し始めた時点で、無数の動画プレイヤー、トランスコーダ、ブラウザエンジンがドミノ倒しのようにサポートを追加することになる。

現段階のdav2dは、未完成の規格に対するプレビュー版の実装である。エンコーダ側の開発インフラも発展途上であり、一般のユーザーが視聴可能なAV2コンテンツ自体が存在しない。dav2dの真の価値は、数年後に訪れるAV2の本格的な普及期において、すべてのデバイスで再生互換性を保証する強固な基盤となる点にある。VideoLANによるこの早期のコード公開は、世界中の開発者に対してプロジェクトへの参加を呼びかけ、次世代の映像配信技術の確立に向けた技術的な足場固めを前倒しで進めるための戦略的な布石である。