2026年2月11日、北京。中国のAIスタートアップの筆頭格であるZhipu AI(智譜AI、旧称:Knowledge Atlas Technology)は、最新の旗艦基盤モデル「GLM-5」を発表した。春節(旧正月)を前に、中国国内のAI競合他社が次々と新技術を打ち出す中、Zhipu AIが提示したのは単なる言語モデルの更新ではない。それは、AIの役割を「対話(Chat)」から「実務(Work)」、そして「雰囲気によるコーディング(Vibe Coding)」から「自律的なエンジニアリング(Agentic Engineering)」へと根本的に転換させるという、明確な戦略的宣言だ。
スケーリング則の限界に挑む:744Bパラメータと28.5Tトークンの重圧
GLM-5の最大の特徴は、前世代のGLM-4.5から大幅に強化された計算資源の投入量にある。同モデルは合計744B(7440億)のパラメータを備え、そのうち実行時にアクティブになるのは40B(400億)という、洗練されたMixture-of-Experts(MoE)構造を採用している。
特筆すべきは、事前学習に投入されたデータ量だ。GLM-4.5の23T(23兆)トークンから28.5Tトークンへと増強されており、これは現存するオープンソース系モデルの中でも最大級の学習量に相当する。Zhipu AIは「AGI(人工汎用知能)の知能効率を向上させる上で、スケーリングは依然として最も重要な手段の一つである」と断言しており、モデル規模とデータ量の両面で限界を押し広げる姿勢を鮮明にしている。
DeepSeek Sparse Attention(DSA)の統合とコスト効率
巨大化するモデルにおいて課題となるのが、推論コストとコンテキスト長の維持である。GLM-5では、DeepSeekが提唱した「Sparse Attention(DSA)」技術を統合した。これにより、131,072トークンから最大202,752トークン(ツール利用時)に及ぶ長大なコンテキストウィンドウを維持しながら、デプロイコストを大幅に削減することに成功している。長文の理解と、後述する「長期的なエージェントタスク」を両立させるための、現実的かつ高度なアーキテクチャ選択といえる。
非同期RL基盤「slime」による学習の高速化
強化学習(RL)は、事前学習済みモデルの「能力」を「卓越性」へと昇華させる鍵だが、大規模モデルにおけるRL学習の非効率性は業界共通の課題だった。これに対し、Zhipu AIは独自の非同期RLインフラストラクチャ「slime」を開発し、オープンソース(GitHub)で公開した。これにより、トレーニングのスループットと効率が劇的に向上し、よりきめ細やかなポストトレーニングのイテレーションが可能になったという。
「Vibe Coding」から「Agentic Engineering」へ:コーディング性能の飛躍
GLM-5が最も注力し、かつベンチマークで驚異的な数字を叩き出したのがコーディングとエージェント性能だ。同社は、これまでのAIによるコーディングを「雰囲気(Vibe)」でコードを書く段階と定義し、GLM-5からは「エンジニアリング(実務)」へと昇華させたと主張する。
競合を圧倒するベンチマーク結果


公式発表によれば、GLM-5は複数の主要ベンチマークにおいて、GoogleのGemini 3.0 Proを凌駕し、AnthropicのClaude Opus 4.5に肉薄する性能を示している。
- SWE-bench Verified: ソフトウェアエンジニアリングの実務能力を測るこのテストにおいて、GLM-5は77.8%を記録。これはGemini 3.0 Pro(76.2%)を上回り、最強のコーディングAIとされるClaude Opus 4.5(80.9%)の背中を捉える数値だ。
- Terminal-Bench 2.0 (Terminus 2): 実際のターミナル操作を伴うタスクでは、GLM-5は56.2点(検証版では61.1点)を獲得。GLM-4.7の41.0点から劇的な進化を遂げ、Claude Opus 4.5(59.3点)と同等レベルに達している。
Spring Bootからパストレーシングまで
GLM-5を試用した日本の「きしだ」氏の報告によれば、その実力はベンチマークの数字を裏付けるものだ。「HTML+JavaScriptでのパストレーシングの実装」という複雑な指示に対し、わずか一度の修正で動作するコードを生成。また、Spring Boot 3.5.9(Java 25)を用いたMaven管理下のTODOアプリ開発においても、Thymeleaf、Spring JDBC、H2 Databaseを組み合わせた検索機能付きの高度なアプリを一気通貫で構築した。
特筆すべきは、その「粘り強さ」だ。エージェントモードでの実行中、処理が一時停止した際にユーザーが継続を促すと、「続けます!」と応答して完遂する。このインタラクションの質の高さは、単なるコード生成を超えた「共同作業者」としての資質を感じさせる。
「Work」を完遂する能力:Office成果物の直接生成
GLM-5が他のLLMと一線を画すのが、アウトプットの形態だ。従来のAIがテキストやコードを生成して終わるのに対し、GLM-5は最終成果物としてのドキュメントファイルを直接出力する機能を備えている。
具体的には、PRD(製品要求仕様書)、試験問題、財務報告書、提案書などを、以下の形式で生成できる。
- .docx (Microsoft Word)
- .pdf (PDF)
- .xlsx (Microsoft Excel)
例えば、米国高校の生徒会によるスポンサー獲得のための提案書作成タスクでは、視覚的に洗練されたレイアウト、表組み、色使いを含んだWordファイルを、追加の編集が不要なレベルで出力した。これは、AIが「文章を書く道具」から「事務作業を完遂するエージェント」へと進化したことを象徴している。
長期タスクと経営判断:Vending Bench 2での勝利
AIエージェントの真の価値は、短期的な対話ではなく、長期的な計画の遂行能力にある。GLM-5は「Vending Bench 2」という、1年間にわたる自動販売機ビジネスの運営シミュレーションにおいて、オープンソースモデルとして世界1位に輝いた。
このベンチマークは、リソース管理、在庫補充、価格戦略などの意思決定を長期にわたって継続する能力を問うものだ。GLM-5は最終的な口座残高として4,432ドルを達成。これはClaude Opus 4.5(4,967ドル)やGemini 3.0 Pro(5,478ドル)といった巨大なクローズドモデルに迫る成績であり、GPT-5.2(xhigh設定時:3,591ドル)を大きく引き離している。長期的なコンテキスト維持と、論理的な一貫性が極めて高いレベルで統合されている証左といえる。
地政学的文脈と「チップ自給率」への挑戦
GLM-5の発表には、技術的な側面以上に重要な政治的・産業的な背景が隠されている。それは、米国の半導体輸出規制が強化される中で、中国が「国内製造チップのみでの推論」を成功させたという事実だ。
Zhipu AIの声明によれば、GLM-5の開発と推論には、Huaweiのフラッグシップチップ「Ascend」をはじめ、Moore Threads、Cambricon(寒武紀)、Kunlunxin(崑崙芯)といった中国国内メーカーの製品が全面的に使用されている。北京当局は、最先端AIモデルの進歩を通じて国内チップの自立を世界に示そうとしており、Zhipu AIはその先鋒を務めている。
NVIDIAのH100/B200といったハイエンドGPUへのアクセスが制限される中、カーネルの最適化やモデルの量子化を通じて、非NVIDIA環境でも高いスループットを実現したことは、中国AIエコシステムにとって極めて大きな勝利を意味する。
日本語対応とローカル知識の現在地
GLM-5は多言語対応を謳っており、日本語の表現力も極めて高い。前述のきしだ氏による検証では、異世界もの小説の執筆において「物語の定石を踏まえた自然な日本語」を出力し、ギャル風のロールプレイ(山口県の解説)でも、単なる語尾の変換にとどまらない「キャラクターになりきった」文章を作成した。
一方で、日本固有の細かな知識については課題も残る。山口県の解説において「錦帯橋は日本三景ではない」といった事実誤認や、存在しない関連遺構への言及が見られた。これは、学習データにおける日本語情報の密度が、英語や中国語に比べればまだ低いことを示唆している。しかし、推論能力(思考プロセス)を活用した「整数四則演算のみで年齢条件分岐を実現する」といった複雑なロジックパズルでは、Deep Thinkモードを併用することで一発正解を導き出しており、基礎的な知能レベルは極めて高い。
オープンソースとしての戦略的配布
Zhipu AIは、GLM-5のモデルウェイトをHugging FaceおよびModelScope上でMITライセンスにて公開した。744Bパラメータのフルウェイト版(約1.51TB)に加え、FP8量子化版(約756GB)も用意されている。
この「オープンソース化」は、先行するMeta(Llamaシリーズ)やDeepSeekと同様の戦略だ。クローズドモデルで先行する米国勢に対し、自社のモデルをデファクトスタンダードとして普及させ、エコシステムを構築することで市場の主導権を握る狙いがある。また、vLLMやSGLangといった主要な推論フレームワークへの対応も即座に行われており、開発者がローカル環境で容易に実装できる体制を整えている。
実務AI時代の到来:私たちはどう向き合うべきか
GLM-5の登場は、AIとの付き合い方が「質問して答えを得る」フェーズから「目的を与えて成果物を受け取る」フェーズへ移行したことを決定づけた。
向いている用途
- 自律型エージェントの構築: 長期タスクの実行とツール呼び出しの正確性を活かした、業務自動化パイプライン。
- 複雑なシステムの設計と実装: フロントエンドからバックエンドまでを跨ぐエンジニアリングタスク。
- 最終成果物の生成: WordやExcelを用いた、人間がそのまま利用できるドキュメントの作成。
- 非NVIDIA環境での運用: Huawei Ascend等のチップを用いた、コスト効率の高い独自のAIインフラ構築。
留意すべき点
- 日本固有の事実確認: 日本の地理や歴史、法規制など、ローカルな事実については外部ツール(検索エージェントなど)による検証が必須。
- 計算リソースの確保: 744Bという巨大なモデルをローカルで動かすには、相応のハードウェア投資が必要となる。
Zhipu AIのCEO、Zhang Peng氏は、海外市場への意欲を隠していない。現在は中国国内市場が主戦場だが、API(api.z.ai)を通じて世界中の開発者がこの「AIタイガー」の牙に触れることができるようになっている。
GLM-5は、単なる中国製LLMの進化ではない。それは「実務を完遂する知能」としてのAIの新しい基準を提示し、米中AI競争の最前線がどこにあるのかを、ベンチマークの結果とともに我々に突きつけている。
Sources