生きた細菌を微細な迷路に送り込み、その移動経路を利用して数学の問題を解く。さらに細菌が途中で分裂すれば、計算を担う個体の数そのものが増え、より多くの経路を並列に探索できる。そんな生物の性質を利用した新しいバイオコンピューターを、マギル大学などの国際研究チームが開発した。
マギル大学のDan V. Nicolau教授らによる研究成果は、2026年8月11日付の学術誌『Microsystems & Nanoengineering』に掲載された。研究チームは、生きた細菌が微小流路を泳いで移動する性質を利用し、計算複雑性理論で「NP完全」に分類される部分和問題を解く仕組みを実証した。最大の特徴は、細菌が計算中に増殖することで、探索に使える計算資源を自律的に増やせる点にある。
従来の並列バイオコンピューティングでは、計算を始める前に投入する分子や微粒子の数が、同時に探索できる経路の数を制限していた。今回の研究では、細菌の細胞分裂によってその制約を緩和する可能性が示された。ただし、実験で確認された問題規模は限定的であり、電子計算機を上回る性能が実証されたわけではない。
細菌が迷路を進むことで「部分和問題」を解く仕組み
研究チームが対象とした「部分和問題(Subset Sum Problem:SSP)」は、与えられた整数の集合からいくつかを選び、その合計が指定された値になる組み合わせが存在するかを判定する問題だ。例えば、整数の集合が「1、3、4」で目標値が5なら、「1+4」という組み合わせが答えになる。
要素数を (N) とすると、考えられる部分集合は全部で (2^N) 通りになる。要素数が増えるにつれて組み合わせの数は指数関数的に増加するため、大規模な問題を総当たりで解くには膨大な計算が必要だ。部分和問題はNP完全問題の一つとして知られ、任意の入力に対して多項式時間で解けるアルゴリズムは発見されていない。ただし、すべての問題例が難しいわけではなく、整数の値や分布によっては効率的に解ける場合もある。
研究チームは、この組み合わせの探索を微小流路のネットワークに置き換えた。整数を選ぶか選ばないかという判断を流路の分岐で表し、細菌が泳いで進む経路によって計算を行う仕組みだ。細菌自身が数値を理解したり、四則演算を実行したりするわけではない。あらかじめ問題の構造を組み込んだ流路を移動することが、数学的な操作に対応している。
ネットワークには、部分集合の合計値に対応する複数の出口が用意されている。細菌がどの出口に到達したかを観察すれば、その合計値を得られる組み合わせが存在するかを判定できる。さらに、細菌が通った経路を追跡することで、どの整数を選んだ結果なのかも調べられる。
細菌の細胞分裂で計算資源を増やす
研究チームは、半導体製造にも使われる微細加工技術を利用して流路チップを作製した。電子線リソグラフィーと反応性イオンエッチングによってシリコン製の原型を作り、そこからポリジメチルシロキサン(PDMS)に流路パターンを転写する。さらに透明なガラス基板などと貼り合わせ、細菌が内部を移動できる密閉型のネットワークに仕上げた。PDMSには酸素を透過する性質があり、好気性細菌の生存と運動を維持するうえでも役立つ。
流路には、主に3種類の接合部が設けられている。
- Split接合部: 流路を二方向に分岐させ、整数を部分集合に含めるかどうかの選択を表す。
- Pass接合部: 流路が交差しても、細菌が進行方向を変えずに通過するための構造。
- Join接合部: 異なる経路から来た細菌が合流する構造。複数の組み合わせが同じ合計値に達する場合などに使われる。
Split接合部では、細菌が左右どちらへ進むかによって探索経路が分かれる。しかし、細菌の移動にはばらつきがあり、本来直進すべきPass接合部で別の流路に入り込むこともある。こうした誤進入によって、正しい計算経路を通っていない細菌が出口に到達すると、誤った結果を生む可能性がある。研究チームはこれを「ゴーストトラフィック」と呼び、誤った経路に進んだ細菌を排除するための側路やトラップ構造を設けた。
この方式の最大の特徴は、計算の途中で細菌が分裂し、探索を担う個体の数を増やせることだ。
従来のバイオコンピューティングでは、アクチンフィラメントや微小管などを分子モーターで動かし、流路ネットワークを探索させる手法が研究されてきた。しかし、これらの計算エージェントは自ら増殖しないため、探索に必要な数を事前に用意しなければならない。大量のエージェントを順次投入する工程が、大規模な計算では時間的な制約になる。
これに対し、細菌は栄養と適切な環境があれば細胞分裂を繰り返す。個体数が世代ごとに倍増すれば、探索を行うエージェントの数も指数関数的に増える。研究チームはこの性質を、計算中にCPUの数が増えていく仕組みに例えている。
実験には、比較的分裂が遅い大腸菌(Escherichia coli)HCB437株と、増殖速度が非常に速い海洋性細菌ビブリオ・ナトリエゲンス(Vibrio natriegens)を使用した。後者は室温でも約9〜12分で倍増できるとされ、微小流路を探索している間に個体数を増やせる。研究チームは、両者の移動特性と増殖速度を比較することで、細胞分裂が計算に与える効果を検証した。
実験で確認された増殖効果と分岐エラー
研究チームは、細菌が分岐点でどのように移動するかを測定し、計算の正確性を評価した。すべての実験は少なくとも3回繰り返されている。
大腸菌HCB437株は走化性に関わる機能が変化した変異株で、方向転換の頻度が低く、比較的直線的に泳ぐ特徴を持つ。一方、V. natriegensは高い増殖速度を持つものの、分岐点での進行方向には偏りが見られた。
各接合部で測定された移動特性は次のとおりだ。
| 測定項目 | 大腸菌HCB437株 | V. natriegens |
|---|---|---|
| Split接合部の左折率 | 50.1% | 61.1% |
| Split接合部の右折率 | 49.8% | 38.3% |
| Pass接合部の誤進入率 | 1.3% | 0.3% |
出典:『Microsystems & Nanoengineering』(2026年)。各値は微小流路接合部での実測結果。
大腸菌は左右の分岐をほぼ均等に選択したのに対し、V. natriegensは左方向を選ぶ割合が高かった。論文では、この偏りを単一の鞭毛を持つ細胞構造の非対称性と関連付けている。一方、Pass接合部での誤進入率はV. natriegensの方が低く、0.3%だった。こうした結果は、細菌の種類や運動特性に合わせて流路の形状を最適化する必要があることを示している。
素数を用いた部分和問題では、要素数 (N=7)、整数の総和42までの問題を実験で解き、目立った動作上の問題が生じないことを確認した。探索する部分集合は (2^7=128) 通りであり、現代の電子計算機にとっては非常に小さな問題だ。この実験の意義は計算速度ではなく、細菌の移動によって数学的な問題を物理的に解けることを確認した点にある。
また、総和42のネットワークで約26分間観察したところ、増殖速度の速いV. natriegensは約2回の分裂サイクルを経ることができ、流路内で探索エージェントの数が増加した。一方、増殖の遅い大腸菌では、同じ観察時間内に同程度の増幅は見られなかった。これにより、細菌の自己増殖を計算資源の拡大に利用できることが実験的に示された。
ただし、要素数7が今回の研究で扱ったすべての実験の上限というわけではない。研究チームは、すべての要素が1である特殊な部分和問題についても検証し、パスカルの三角形に対応する流路では要素数100までの解の判定を確認した。さらに、大規模流路の動作試験では要素数175に相当する範囲まで細菌の移動を確認している。要素数200のネットワークでは、一部の流路が十分に濡れていない製造・実験上の問題により、出口の観測が175までにとどまった。
もっとも、すべての要素が1の問題は構造が単純で、Pass接合部の誤進入も問題になりにくい。こうした大規模流路での動作確認と、異なる整数を組み合わせた複雑な部分和問題を正確に解く能力は区別する必要がある。
シミュレーションでは大規模化の可能性を予測、電子計算機との比較には条件
研究チームは、実験で得られた細菌の移動速度、分裂時間、方向選択の偏り、接合部でのエラー率などを使い、モンテカルロシミュレーションによって大規模化した場合の性能を推定した。
重要な制約として浮かび上がったのが、Pass接合部での誤進入だ。問題規模が大きくなるほど流路内の接合部が増え、誤った経路をたどる細菌も増加する。その結果、正しい出口に到達した細菌の信号が、誤進入によるノイズに埋もれてしまう可能性がある。
シミュレーションでは、Pass接合部のエラー率を1%とした場合、統計的に正しい解を識別できる問題規模は要素数10〜15程度と推定された。要素数30以上を安定して解くには、エラー率を0.01%未満まで下げる必要があるという。これは現在の実測値より大幅に低く、流路設計と細菌の運動制御を改善しなければ実現は難しい。研究チームは、立体的な交差構造を採用して誤進入を防ぐ方法などを提案している。
計算時間についても、実測値を基にしたシミュレーションでスケーリングを評価した。素数を用いた部分和問題では、問題規模と計算時間の関係がべき乗則によく一致し、回帰分析の決定係数は (R^2>0.99) だった。これは、特定の条件下では計算時間の増加を多項式的な関係で近似できる可能性を示している。ただし、整数の値が指数関数的に増えるような難しい部分和問題では、流路そのものが指数関数的に長くなるため、細菌の移動に要する時間も指数関数的に増加する。
研究チームは、従来の電子計算機との理論的な比較も行った。Intel Pentium ProやAMD Ryzen Threadripper 3990Xを比較対象とし、細菌の移動速度と増殖速度が高い条件では、それぞれ要素数約28と約38で計算時間が並ぶ可能性があると推定している。しかし、この条件で必要となる細菌の体積は、前者で約1リットル、後者では約1立方メートルに達する。
さらに、これらの比較は、細菌の体積をゼロとみなす理想化したシミュレーションや、電子計算機側の総当たり計算に基づいている。実際の細菌には大きさがあり、流路内で増え続ければ混雑が発生する。また、電子計算機には部分和問題に特化した効率的なアルゴリズムも存在するため、今回の結果から一般的な計算性能で優位に立てると判断することはできない。
エネルギー効率についても同様だ。論文では、細菌が10µm移動して一つの論理操作を行う際のエネルギーを約 (2\times10^{-18}) Jと推定している。一方、比較対象としたCPUの演算あたりのエネルギーは約 (3.9\times10^{-12}) 〜 (1.4\times10^{-11}) Jとされる。
ただし、細菌側の数字は主に移動に必要なエネルギーを対象としたもので、細胞の生命活動全体を含まない。論文でも、大腸菌が運動に使用するエネルギーは消費エネルギー全体の約2%にすぎないと説明している。実際の装置では、細菌の培養、温度管理、顕微鏡による観察、画像解析などにもエネルギーが必要となるため、システム全体で電子計算機より省電力だと実証されたわけではない。
今回の成果を、実験、シミュレーション、理論的な比較に分けて整理すると次のようになる。
| 評価段階 | 主な結果 | 限界・未検証事項 |
|---|---|---|
| 実験による部分和問題の計算 | 素数系列では要素数7、総和42までを検証 | 複雑な問題の大規模化 |
| 細菌の移動と増殖の測定 | Pass接合部のエラー率0.3〜1.3%、約26分でV. natriegensの約2世代分の増殖機会を確認 | 長時間運転での安定性 |
| 特殊な部分和問題の動作試験 | すべての要素が1の問題で要素数100までの解を判定。流路の動作は175相当まで確認 | 一般的な部分和問題への適用 |
| モンテカルロシミュレーション | エラー率1%では要素数10〜15程度、要素数30以上には0.01%未満のエラー率が必要と推定 | 低エラー率を実機で達成できるか |
| 電子計算機との理論比較 | 特定条件で計算時間が逆転する可能性を提示 | 必要な細菌量、装置容積、実際の消費電力 |
| 将来の応用 | 暗号解読や分子生物学などへの応用可能性 | 具体的な実証と実用上の優位性 |
増え続ける細菌と限られた流路空間、実用化を阻む物理的制約
細菌が自ら増殖することは、今回のバイオコンピューターの最大の利点であると同時に、大規模化に向けた制約にもなる。
最も重要なのが、流路内の混雑だ。細菌が分裂を続ければ、時間とともに個体数が増え、特に複数の経路が合流する場所や出口付近で密度が高くなる。細菌同士の衝突や流体力学的な干渉によって移動が妨げられると、並列探索の利点が失われる可能性がある。流路が詰まれば、細菌が一列に並んで進むような状態になり、計算時間の増加につながる。
さらに、長時間の計算では栄養不足や代謝老廃物の蓄積、細菌の流路壁面への付着も問題になる。研究チームは、流路の上部に多孔質膜を設けて栄養を供給する方法などを改善策として挙げている。また、過去の研究ではPDMS表面を親水化することで細菌の付着を抑えられることも確認されている。ただし、大規模な計算ネットワークでこうした対策が十分に機能するかは、今後の検証が必要だ。
今回の研究では、パスカルの三角形を使った大規模流路の試験で、要素数175に相当する範囲まで深刻な混雑は観測されなかった。しかし、これは増殖による混雑が発生しないことを保証するものではない。理論的な分析では、問題の種類や流路の密度によって、要素数15〜30程度から混雑が計算時間に影響し始める可能性も指摘されている。
研究チームは、流路の一部を深くして増殖した細菌のための空間を確保する方法や、平面上の流路を三次元構造に変更する方法などを提案している。分岐点の構造を動的に切り替え、計算する問題を変更できるようにする構想もある。また、細菌に遺伝子工学的な改変を加え、どの経路を通過したかを細胞自身に記録させることで、計算結果の読み取りを改善する可能性も検討されている。
バイオコンピューターは電子計算機の代替となるのか
研究チームは、将来的な応用分野として暗号解読、分子生物学、人工知能などを挙げている。タンパク質の立体構造に関する問題への応用にも言及しているが、今回の実験でこうした課題を解いたわけではない。現時点で示されたのは、数学的な組み合わせ探索を微小流路に置き換え、生きた細菌の移動と増殖を利用して計算できるという基本原理だ。
従来の電子計算機は、演算速度、精度、プログラムの柔軟性、装置の小型化などで圧倒的な優位性を持つ。今回の方式は、そうした電子計算機を直接置き換えるものではなく、特定の組み合わせ問題に対して生物の並列性を利用する、補完的な計算技術としての可能性を探る研究と位置付けられる。
今回の研究で重要なのは、細菌が計算を行うだけでなく、計算中に自ら増殖して探索能力を拡張できることを実験で確認した点にある。計算資源を外部から追加するのではなく、生物自身の増殖によって増やすという発想は、従来の電子計算機とは根本的に異なる。
ただし、この仕組みが実用的な計算技術になるかは、接合部での誤進入をどこまで抑えられるか、増殖した細菌が流路を詰まらせないか、装置全体の規模とエネルギー消費をどこまで削減できるかにかかっている。細菌の自己増殖という利点を、物理的な制約に妨げられず計算性能へ結び付けられるかが、今後の研究の焦点となる。
