欧州原子核研究機構(CERN)の大型ハドロン衝突型加速器(LHC)で稼働するLHCb実験チームが、40年以上にわたって探索されてきた極めて稀な素粒子の崩壊現象について、単一実験として初めて統計的な証拠を捉えた。対象は、中性の中間子がミューオンと反ミューオンの対に崩壊する「」という現象だ。標準模型による予測では約100億回に1回しか起こらず、今回の測定では統計的有意性が3.2σ(シグマ)に達した。
研究チームは2026年10月30日、論文のプレプリントをarXivに公開し、11月3日にCERNとLHCbが成果を正式に発表した。論文は学術誌『Physical Review X』に投稿されているが、現時点では査読を完了していない。
今回の成果は、未知の素粒子を発見したことを意味するものではない。測定された崩壊確率は標準模型の理論予測と誤差の範囲内で一致しており、むしろ既存の理論が新たな精度で裏付けられた形だ。ただし、この崩壊には直接生成できないほど重い未知の粒子が量子効果を通じて影響を及ぼす可能性があるため、測定精度の向上は標準模型を超える「新物理」の探索において重要な意味を持つ。
との違い:100億回に1回の崩壊が特別な理由
今回の成果を理解するうえで重要なのが、中間子と、よく似た名前を持つ中間子の違いだ。いずれもボトムクォーク(ビューティークォーク)を含む中性粒子だが、構成するクォークが異なり、ミューオン対への崩壊確率にも大きな差がある。
通常の中間子はダウンクォーク($d$)と反ボトムクォーク(\bar)から構成される。一方、中間子はストレンジクォーク($s$)と反ボトムクォークの組み合わせでできている。
\[ B^0=|d\bar{b}\rangle,\qquad B_s^0=|s\bar{b}\rangle \]
どちらもミューオンと反ミューオンの対に崩壊する可能性があるものの、その頻度を表す「分岐比」は約30倍異なる。標準模型が予測する分岐比は、の場合が、の場合がだ。これは、それぞれ約3億回に1回、約100億回に1回という確率に相当する。
この差には、クォークの世代間混合を記述する小林・益川行列(CKM行列)が関係している。の崩壊には行列要素、の崩壊にはが関与するが、前者の値は後者より小さい。崩壊確率はこれらの要素の絶対値の2乗に依存するため、の崩壊はより強く抑制される。こうした性質は「CKM抑制」と呼ばれる。
については、LHCbとCMSによる2015年の共同解析ですでに5σを超える有意性が得られ、観測が確立している。一方、では、これまで単一実験で証拠と呼べる水準に達していなかった。今回の成果が重要なのは、既知の崩壊を改めて確認したことではなく、さらに約30倍稀な崩壊の信号を、LHCb単独で統計的に捉えた点にある。
13.6 TeVの衝突データから得られた測定結果
今回の解析の中心となったのは、LHCの第3期運転(Run 3)において、2024年から2025年に収集された陽子衝突データだ。衝突の重心系エネルギーは13.6 TeV、積分ルミノシティは18 fbに達する。積分ルミノシティとは、粒子衝突によって得られたデータ量の規模を表す指標である。
研究チームは、このRun 3のデータを単独で解析するとともに、2011〜2012年のRun 1(7〜8 TeV、3 fb)と2015〜2018年のRun 2(13 TeV、6 fb)の結果を組み合わせた結合解析も実施した。両者を区別することが重要で、Run 3単独で得られた測定値と、Run 1〜3を結合した最終測定値は異なる。
Run 1〜3の結合解析で得られたの分岐比は、次の通りだ。
\[ \mathcal{B}(B^0\to\mu^+\mu^-)= \left(1.14^{+0.42+0.06}_{-0.39-0.05}\right)\times10^{-10} \]
上付き・下付きの最初の数値は統計誤差、二つ目は系統誤差を表す。測定の中心値はであり、標準模型の予測値と整合している。
同時に測定されたの結合分岐比は、以下の値となった。
\[ \mathcal{B}(B_s^0\to\mu^+\mu^-)= \left(3.25^{+0.26+0.13}_{-0.25-0.12}\right)\times10^{-9} \]
こちらも標準模型の予測値と不確かさの範囲内で一致する。研究チームはさらに、両者の分岐比の比率\mathcalを測定した。この指標はCKM行列要素の比などを反映しており、標準模型とは異なるクォークの相互作用構造を探る手掛かりとなる。
\[ \mathcal{R}_{\mu\mu}\equiv \frac{\mathcal{B}(B^0\to\mu^+\mu^-)} {\mathcal{B}(B_s^0\to\mu^+\mu^-)} =0.035^{+0.014+0.002}_{-0.012-0.001} \]
標準模型による予測はであり、この比率についても有意な食い違いは見つからなかった。
加えて、の崩壊時間分布から求められる実効寿命も測定された。Run 1〜3の結合結果はピコ秒(ps)で、標準模型の予測と整合している。実効寿命は分岐比とは異なる性質を調べる指標であり、崩壊確率に変化を生じさせない新物理の影響を検出できる可能性がある。
主要な測定結果を、Run 3単独とRun 1〜3の結合解析に分けて整理すると次のようになる。
| 測定項目 | Run 3単独 | Run 1〜3結合 |
|---|---|---|
| の分岐比 | ||
| の分岐比 | ||
| 分岐比の比\mathcal_ | $0.035^0.016_-0.013000000000000001$ | |
| の実効寿命 | ps | ps |
| 崩壊の統計的有意性 | 3.0σ | 3.2σ |
出典:LHCb共同研究チームの論文(arXiv:2611.00230v1)。誤差は統計誤差、系統誤差の順に記載。
{
"type": "bar",
"title": "B中間子の希少崩壊:標準模型と測定値の比較",
"unit": "×10^-10",
"categories": ["B0 → μ+μ−", "Bs0 → μ+μ−(÷20)"],
"series": [
{
"name": "標準模型の予測値",
"values": [1.03, 1.83]
},
{
"name": "LHCb結合測定値",
"values": [1.14, 1.625]
}
],
"caption": "Run 1〜3結合解析の中心値を比較。Bs0の分岐比は表示上20分の1に縮小している。棒グラフには誤差範囲を表示していないが、両崩壊の測定値は標準模型の予測と不確かさの範囲内で整合する。",
"source": "LHCb collaboration, arXiv:2611.00230v1"
}今回の結果では、の測定値に依然として比較的大きな統計誤差が残っている。一方、の分岐比と実効寿命については、単一実験として世界最高精度の測定が得られた。いずれも標準模型からの有意な逸脱は見られず、未知の相互作用を仮定する理論モデルに対する制約を強める結果となっている。
ビームから5ミリメートルの検出器と機械学習が支えた測定
約100億回に1回しか起きない崩壊を検出するには、膨大な陽子衝突データから目的の信号を正確に選び出さなければならない。LHCの陽子衝突では多数の粒子が生成されるため、2個のミューオンが検出されても、それだけで中間子の崩壊と判断することはできない。無関係な粒子の組み合わせや、別の崩壊過程から生じたミューオン対を、背景事象として取り除く必要がある。
今回の測定を可能にした要因の一つが、LHCb検出器の大規模改修「Upgrade I」だ。マンチェスター大学の発表によると、この改修によって従来の装置と比べて最大5倍の頻度で衝突データを収集できるようになった。粒子の飛跡を測定する検出器や粒子識別システムも刷新され、高い衝突頻度の下でも精密な測定が可能になっている。ただし、データ収集能力の5倍という数字は、すべての測定精度が5倍になったことを意味するものではない。
特に重要な役割を担ったのが、シリコンピクセル検出器「VELO(Vertex Locator)」である。VELOは陽子ビームからわずか5ミリメートルの位置に配置されており、粒子の飛跡を高い空間分解能で記録する。$B$中間子は生成から崩壊まで約1.5ピコ秒という短い寿命しか持たないが、LHCでは高速で移動するため、生成地点から数ミリメートル離れた場所で崩壊する場合がある。
VELOは、陽子が衝突した位置である一次頂点と、$B$中間子が崩壊した二次頂点を区別するために使われる。研究チームは、ミューオンの飛跡、崩壊頂点、飛行方向などを組み合わせ、$B$中間子の崩壊に由来する候補事象を選別した。さらに、改修されたリングイメージング・チェレンコフ検出器(RICH)やミューオン検出システムによって、他の粒子をミューオンと誤認する事象の除去能力も向上した。
ソフトウェアによる解析では、機械学習の一種であるブースト決定木(BDT)が重要な役割を果たしている。研究チームは粒子の飛跡と崩壊頂点の幾何学的な関係などを使って背景事象を抑制し、BDTの出力に応じて候補を分類した。そのうえで、2個のミューオンの不変質量分布に統計モデルを当てはめ、とそれぞれの信号数を推定している。
ただし、背景事象の影響を完全に排除できるわけではない。論文によると、Run 3におけるの分岐比測定で最大の系統誤差要因となったのは、ハドロン崩壊や半レプトン崩壊に由来する背景事象の推定で、その影響は分岐比の約4%に相当する。例えば、中間子や$K$中間子をミューオンと誤認する事象や、ニュートリノを伴う崩壊から生じる背景を適切にモデル化しなければならない。
一方、の分岐比測定で最大の系統誤差要因となったのは、ボトムクォークがとにそれぞれハドロン化する確率の比であり、その影響は約3%だった。今回の成果は、検出器の高精度化、粒子識別能力の向上、機械学習による背景抑制、統計モデルの改善を組み合わせることで得られたものだ。
3.2σは「証拠」であり「発見」ではない
素粒子物理学では、観測された信号が偶然の統計的変動によって生じた可能性を評価するため、統計的有意性をσ(標準偏差)で表す。一般に3σを超えると「証拠(evidence)」、5σに達すると「発見(discovery)」と呼ぶ慣例がある。5σは、背景事象のみを仮定した場合に観測結果と同程度以上の逸脱が起きる確率が、片側検定で約350万分の1となる水準だ。
今回、2024〜2025年のRun 3データだけを用いた解析では、の信号は3.0σの有意性を示した。さらに過去のRun 1とRun 2のデータを組み合わせると、有意性は3.2σに上昇した。この値は、信号を含むモデルと背景事象のみのモデルの尤度を比較し、ウィルクスの定理に基づいて算出されたもので、擬似実験による検証も行われている。
それでも、今回の結果を「崩壊の発見」と呼ぶことはできない。この区別が重要なのは、同じ崩壊現象を巡って、過去にも3σの証拠が報告されながら、その後のデータで有意性が低下した経緯があるためだ。
2015年、LHCbとCMSはRun 1データの共同解析を学術誌『Nature』に発表し、について3.0σの証拠を報告していた。しかし、その後Run 2までのデータを使った解析では、この有意性は維持されなかった。初期の結果には、統計的な揺らぎによって信号が実際より強く見えていた可能性が残っていた。
今回の成果が「単一実験として初の証拠」と位置付けられるのは、LHCbとCMSという別々の実験の結果を合算することなく、LHCb自身のデータだけで3σを超えたからだ。過去の経験を踏まえると、今後データが増えたときにも有意性が維持されるかが重要になる。3.2σという結果は40年以上の探索における大きな進展だが、最終的な確証にはさらなる測定が欠かせない。
標準模型との一致が狭める「新物理」の可能性
今回の測定結果が重要なのは、単に珍しい崩壊を捉えたからではない。は、標準模型を超える新しい物理の影響が現れやすい現象として、長年注目されてきた。
この崩壊は「フレーバー変化中性カレント(FCNC)」と呼ばれる相互作用に分類される。標準模型では、クォークの種類が変化する中性カレント相互作用は、最も単純なツリーレベルでは起こらない。そのため、この崩壊には$W$ボソンやトップクォークなどが関与する高次の量子過程が必要となる。こうした過程は「ボックス図」や「ペンギン図」と呼ばれるファインマン図によって表現される。
高次の量子過程には、LHCで直接生成できないほど重い未知の粒子が間接的に影響する可能性がある。例えば、標準模型に存在しない追加のヒッグス粒子、$Z'$ボソン、レプトクォークなどが存在すれば、崩壊確率や寿命に変化をもたらす理論モデルが考えられる。実際、論文ではこうした崩壊を利用することで、条件によっては最大100 TeV程度のエネルギースケールにある新物理の影響を調べられると説明している。
しかし、今回測定された分岐比は標準模型の予測と一致していた。これは未知の粒子が存在しないことの証明ではないが、少なくとも今回の測定と矛盾するほど大きな影響を及ぼす理論モデルのパラメータ領域は制限される。今後測定精度が高まれば、未知の相互作用が許される範囲をさらに絞り込める。
研究成果の発表では、「ゼプトバース(Zeptoverse)」という表現も使われている。これは、1ゼプトメートル($10^-21$メートル)という極めて小さな空間スケールに関連する未知の物理領域を指す概念的な呼び名だ。ただし、今回の実験でゼプトメートルの空間を直接観察したわけではなく、未知の粒子が実際にその領域で発見されたわけでもない。既知の粒子の崩壊を精密に測定し、極めて高いエネルギースケールにある未知の物理の影響を間接的に探るという意味で使われている。
LHCbでは、2030年代初頭にかけてさらに多くのデータを蓄積する計画が進んでいる。マンチェスター大学によると、将来の追加アップグレードではデータ収集レートをさらに約10倍に引き上げる構想もある。ただし、これは今後の計画であり、今回の有意性が5σへ到達する時期を保証するものではない。
約100億回に1回という希少な崩壊を単一実験で捉えたことは、素粒子物理学にとって重要な節目となった。現時点で新物理の兆候は見つかっていないものの、標準模型の予測をより厳密に検証する新たな手段が得られた。今後のデータによって今回の証拠が確かな発見へと進むのか、そして測定精度の向上が標準模型との新たな食い違いを明らかにするのかが、次の焦点となる。



