中国が建造した最新鋭の深海掘削船「夢想号(Meng Xiang)」が、ついにそのベールを脱いだ。その目標は、人類がいまだ到達したことのない地球の内部、地殻とマントルの境界「モホロビチッチ不連続面(モホ面)」を貫くこと。この壮大な計画は、地球科学に革命をもたらす可能性を秘める一方で、領有権問題で揺れる南シナ海を舞台に、新たな地政学的緊張を生む火種となるかもしれない。
海に浮かぶ超巨大研究所「夢想号」の全貌
2024年11月17日、広州で就役した「夢想号」は、単なる掘削船という言葉では表現しきれないほどの能力を秘めている。 全長179.8メートル、排水量42,600トンという巨体は、まさに海に浮かぶ巨大な総合研究所だ。
その心臓部である掘削システムは、最大で海底下11,000メートルまで到達可能という、驚異的な性能を誇る。 これは、地球の”皮膚”ともいえる地殻を突き破り、その下にあるマントル層から直接サンプルを採取するという、長年の科学者の夢を現実にするためのスペックだ。
さらに、この船は世界で初めて、深海の科学掘削、石油・ガスといったエネルギー資源探査、そして「燃える氷」として知られる天然ガスハイドレートの調査・試験採掘という3つの機能を統合している。 船内には地質学から微生物学まで9つの先進的な研究室が並び、採取したコアサンプルを自動で保管する世界初のシステムも搭載されている。 120日間の連続航行能力と、スーパー台風にも耐えうる設計は、この船が世界のあらゆる海域で長期的なミッションを遂行できることを示している。
なぜ海から? 人類がマントルを目指す科学的意義

そもそも、なぜ人類はこれほどまでにマントルへの到達を熱望するのだろうか。そして、なぜ大陸ではなく、わざわざ困難な海上から掘削しようとするのか。
答えは地球の構造にある。我々が住む地殻の厚さは、大陸部では平均30〜40km、厚い場所では90kmにも達する。 一方で、海底を構成する海洋地殻は、わずか5〜10kmと格段に薄い。 マントルへの最短ルートは、明らかに海の底にあるのだ。
この地殻とマントルの境界こそが「モホ面」であり、地震波の伝わる速さが急に変わることから、1909年にクロアチアの地震学者Andrija Mohorovičić(アンドリア・モホロビチッチ)によって発見された。 しかし、その正体は未だ地震波などの間接的なデータから推測されているに過ぎない。
「夢想号」がモホ面を貫き、マントルの岩石(かんらん岩などが主成分と考えられている)を直接手にすることができれば、それは地球科学における革命的な出来事となる。大陸がどのように移動し、海洋の地殻がどう進化してきたのか(プレートテクトニクス理論)、地球深部の生命圏の謎、そして過去の地球の気候変動のメカニズム解明など、数多くの根源的な問いに答えるための、決定的な手がかりが得られると期待されている。
冷戦下の「地底競争」- 挫折の歴史
地球深部への挑戦は、今回が初めてではない。実はその歴史は、宇宙開発競争と並行して、冷戦下の米ソ間で熾烈に繰り広げられていた。
1950年代後半、米国は「モホール計画」を始動させた。 海洋掘削によってモホ面への到達を目指すこの野心的な計画は、新しい掘削技術を次々と生み出したが、技術的な困難と膨れ上がるコスト、そして政治的な対立の末、1966年に中止に追い込まれた。メキシコ沖で到達した深度は、海底下わずか183mだった。
一方のソビエト連邦は、陸上から掘削する道を選んだ。1970年から始まった「コラ半島超深度掘削坑」は、20年以上の歳月をかけて12,262mという驚異的な深度に達した。 しかし、これは分厚い大陸地殻の3分の1を掘り進んだに過ぎず、モホ面には遠く及ばなかった。 掘削孔の底では、摂氏180度にも達する高温と高圧が待ち受けており、当時の技術の限界を浮き彫りにした。
これらの過去の挑戦は、地球の深部がいかに過酷で、到達困難なフロンティアであるかを物語っている。そしてそれは同時に、最新技術を結集した「夢想号」の挑戦が、歴史的な偉業となる可能性を秘めていることの裏返しでもある。
科学の探求か、覇権への布石か – 南シナ海の地政学リスク
「夢想号」のミッションは、純粋な科学探査だけで終わらないかもしれない。その活動予定海域と、船が持つ多機能性が、地政学的な疑念を呼び起こしている。
この船は、2035年にかけて南シナ海で掘削作業を行う計画だ。 この海域は、中国がフィリピン、ベトナム、マレーシアなどと領有権を激しく争っている、世界で最も緊張の高い海域の一つである。
2014年には、中国の石油掘削リグ「海洋石油981」がベトナム沖に設置され、両国間で深刻な対立を引き起こした事例がある。 科学調査とエネルギー資源探査の能力を併せ持つ「夢想号」が、係争海域で活動することは、周辺国から「科学を隠れ蓑にした資源探査、ひいては領有権の既成事実化」と見なされるリスクをはらんでいる。
過去には、米CIAが沈没したソ連の原子力潜水艦を引き揚げる極秘作戦「プロジェクト・アゾリアン」を、著名な実業家Howard Hughesによるマンガン採掘事業に見せかけて実行した歴史もある。 このように、海洋開発が諜報活動や軍事的な意図を隠すために利用されてきた前例は、各国が「夢想号」の活動に神経を尖らせる十分な理由となるだろう。
「夢想号」がもたらす科学的データは国際協力の下で共有されると中国側は強調するが、その動向が他国による厳しい監視の対象となることは避けられない。 この船は、人類の知の地平を拓く探査船であると同時に、複雑な国際関係の力学を映し出す鏡にもなり得るのだ。
超高温・超高圧との闘い – 未知の物理法則が待ち受ける世界
地政学的な課題に加え、「夢想号」の前には、自然そのものが作り出す究極の壁が立ちはだかる。モホ面付近の環境は、我々の常識が通用しない極限の世界だ。
海洋地殻の下では、圧力は2,000気圧、温度は摂氏150〜300度に達する。 このような環境では、岩石はもはや固い個体ではなく、強い圧力を受けて粘土のように振る舞う「塑性」という性質を示すようになる。 ドリルビットは岩を「削る」のではなく、まるで熱いアスファルトに突き刺さるように、ねっとりとした物質を「噛み進む」ことを強いられる。部分的には融解している可能性すらある。
こうした極限状態を克服するため、「夢想号」は特殊な泥水(マッド)を循環させるシステムなど、最先端の技術を搭載している。 しかし、人類が経験したことのない領域に足を踏み入れる以上、予測不能な事態に遭遇する可能性は常に存在する。
「夢想号」の挑戦は、Jules Gabriel Verne(ジュール・ヴェルヌ)が『地底旅行』で描いたような空想の世界を、現実のものにしようとする試みだ。そのドリルが地球の深奥から何を持ち帰るのか。それとも新たな国際紛争の火種となるだけに終わるのか。世界は今、固唾をのんでその行方を見守っている。
論文
- Nature Geoscience: The Moho is in reach of ocean drilling with the Meng Xiang
参考文献