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東南アジアが計算資源の新たな聖地に:中国企業が規制回避のためHDDをマレーシアに持ち込み現地のNVIDIAチップを活用

Y Kobayashi

2025年6月16日

米中間の熾烈な「チップ戦争」が、新たな局面を迎えたことを象徴する驚くべき事件が明らかになった。米国の厳格な半導体輸出規制により、最先端AIチップの入手が困難になった中国企業が、チップそのものではなく「データ」を物理的に国外へ持ち出し、現地でAIモデルを訓練するという、大胆かつアナログな手法で規制の網をかいくぐっている実態が浮上したのだ。

これは単なる規制回避の抜け道探しから、高性能な計算資源(コンピュート)を巡る争いが、ハードウェアの所有からアクセスの確保へとシフトしつつある現実を突きつけている。そしてその舞台として、マレーシアをはじめとする東南アジアが、中国にとっての「コンピュート・ヘイブン(計算資源の避難地)」として急速に台頭しているのである。

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事件の全貌:アナログ手法で突破されたデジタル要塞

The Wall Street Journal(WSJ)が報じたこの作戦は、まるでスパイ映画の一場面を彷彿とさせる。しかし、その手口は驚くほど物理的、つまりアナログだった。

北京からクアラルンプールへ、80TBのデータ旅行

報道によれば、事件が起きたのは今年3月のこと。中国のあるAI企業のエンジニア4人が、北京からマレーシアの首都クアラルンプールへと飛んだ。彼らのスーツケースには、それぞれ15台、合計で80テラバイト(TB)を超えるデータを格納したハードドライブが詰め込まれていた。データの中身は、AIモデルの訓練に不可欠なスプレッドシート、画像、動画クリップなどだ。

彼らの目的地は、マレーシア国内にあるデータセンター。そこで同社がレンタルした、NVIDIA製の高性能AIチップ(Hopper世代の可能性が高い)を搭載した約300台のサーバーを使い、持ち込んだデータでAIモデルを訓練。その後、完成したモデルのパラメーター(数百ギガバイトのデータ)を再び中国に持ち帰ったという。

なぜネット転送ではなく物理的なHDDだったのか?

数ヶ月に及んだというこの周到な計画において、なぜエンジニアたちは大容量データをインターネット経由で転送せず、物理的なハードドライブを空輸するリスクを選んだのだろうか。

答えは、速度と秘匿性にある。80TBもの巨大なデータを国境を越えてインターネットで転送すれば、数週間から数ヶ月という膨大な時間がかかるだけでなく、通信ログから不審なアクティビティとして検知されるリスクも高まる。物理的なハードドライブの空輸は、数時間のフライトで完了し、税関を突破できれば追跡は格段に困難になる。彼らは「より速く、より見つかりにくい」方法を選択したのだ。

周到な準備:法人設立から荷物の分散まで

この作戦は、単なる思いつきではなく、背後には、米国の監視の目をかいくぐるための綿密な戦略があった。

  • 法人格の偽装: 当初、この中国企業はシンガポール子会社を通じてマレーシアのデータセンターを利用していた。しかし、NVIDIAやそのベンダーによるエンドユーザー(最終使用者)監査が厳格化するにつれ、マレーシアのデータセンター側から、より監査の目が届きにくいマレーシア法人を介して契約するよう求められた。これに応じ、同社はクアラルンプールにマレーシア国民を役員とするペーパーカンパニーを設立している。
  • リスク分散: マレーシアの税関で疑念を抱かれるのを避けるため、エンジニアたちはハードドライブを4つのスーツケースに分散して詰め込んだ。前年には1つの荷物にまとめていたというから、リスク管理をより徹底させたことが伺える。

ハードウェア(チップ)の密輸が困難になる中、「ソフトウェア(データ)を国外に持ち出す」という発想の転換。これは、米国の規制の穴を突く、巧妙な戦略と言わざるを得ない。

なぜマレーシアなのか?浮かび上がる「コンピュート・ヘイブン」

今回の事件で、中国企業のAI開発における迂回拠点としてマレーシアが選ばれたことには、明確な地政学的・経済的理由がある。

安価な電力と潤沢な土地:シンガポールからの地殻変動

これまで東南アジアのデータセンターハブといえば、シンガポールだった。しかし、シンガポールは国土が狭く、電力や水資源に制約があるため、2019年にデータセンターの新規建設を一時停止。これにより、投資先を探すデータセンター事業者やクラウド企業が、隣国マレーシアへと流れ込んだ。

マレーシアは、比較的安価で安定した電力供給、広大な土地、そして政府の積極的な誘致策を武器に、新たなハブとしての地位を確立しつつある。特に南部のジョホール州は、シンガポールに隣接する地の利からデータセンターの集積地となっている。

中国との安定した関係と「合法的な」NVIDIAチップへのアクセス

マレーシアは、米国主導の対中包囲網とは一定の距離を保ち、中国と良好な関係を維持している。これが中国企業にとって、事業を展開しやすい安心材料となっている。

そして最も重要な点は、マレーシアが米国の先端チップ輸出規制の直接的な対象国ではないことだ。つまり、マレーシア国内のデータセンターは、NVIDIAのH100のような高性能AIチップを「合法的に」輸入し、サーバーを構築できる。中国企業は、これらのサーバーをレンタルすることで、自国では手に入らない最高レベルの計算能力にアクセスできるのだ。

この需要を裏付けるように、NVIDIAのマレーシアへの輸出額は直近の四半期で34億ドルに達したと報じられている。この一部が、中国企業のAI開発需要を満たすために使われていることは、もはや公然の秘密だ。

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「チップ戦争」から「コンピュート戦争」へ:米国の規制は機能しているのか?

今回の「データ密輸」事件は、米国の輸出規制戦略が重大な岐路に立たされていることを示している。

抜け道を探し続ける中国企業:イタチごっこの実態

2022年10月に米国が包括的な対中半導体輸出規制を導入して以来、中国企業はあらゆる手段でこれを回避しようと試みてきた。

  1. 国内チップ開発: Huaweiなどが独自チップの開発を加速。
  2. ダウングレード版の活用: NVIDIAが中国市場向けに開発した性能を落としたチップ(A800/H800など)を利用(これも後に規制対象となった)。
  3. チップの密輸: 香港などを経由したブラックマーケットでの不正入手。
  4. クラウド・コンピューティング: 海外のクラウドサービスを利用したリモートアクセス。
  5. データ・アウト(今回): データを国外に持ち出し、現地のサーバーで処理。

このように、米国が規制の穴を一つ塞ぐたびに、中国企業は新たな抜け道を見つけ出すという「イタチごっこ」が続いている。水が高いところから低いところへ流れるように、計算資源を求める需要もまた、規制の緩い場所へと流れていくのは自然の摂理ともいえる。

「データ越境」という新たな挑戦:規制の限界

ハードウェアの移動を制限することは比較的容易だが、「データ」の移動を完全に管理することは極めて困難だ。今回の事件は、その現実を浮き彫りにした。米国の規制当局は、中国企業による米国製チップへのリモートアクセスを懸念していたが、物理的なデータ移動というアナログな手法は、その監視の網をすり抜けた。

Biden政権は、特定の国へのチップ販売に上限を設ける案も検討したが、最終的には見送られ、企業側に使用目的の確認を促すガイダンスの発出に留まっている。しかし、何層もの仲介業者や子会社が介在するグローバルなサプライチェーンにおいて、最終的な利用者が誰なのかを正確に把握することは、チップメーカーにとっても至難の業だ。

アナリストの視点:これは規制の失敗か、必然の帰結か

この状況を「米国の規制の失敗」と断じるのは早計だろう。規制によって、中国が最先端のAI開発を行う上でのコストと時間は、間違いなく増大している。今回のマレーシアでの作戦も、数ヶ月の準備と複雑な手続きを要しており、決して効率的な方法ではない。

しかし、筆者はこの動きを、規制がもたらした「必然の帰結」と見ている。米国の狙いは、中国のAI開発を完全に止めることではなく、そのペースを鈍化させ、軍事転用を防ぐことにある。その意味では一定の効果を上げている一方、中国企業に創造的な回避策を促し、結果として東南アジアなどの第三国に新たなビジネスチャンスを生み出すという、意図せざる地政学的・経済的な再編を引き起こしている。

米国の規制は、中国のAI開発の「蛇口」を完全に閉めることはできず、むしろその流れを世界中に分散させる「分水嶺」として機能しているのかもしれない。この複雑な現実を直視することなく、米中テック戦争の行方を語ることはできないだろう。


Sources

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