しかし、AI(人工知能)分野において、その絶対的な優位性に陰りが見え始めている。最新の調査レポートは、トップクラスのAI人材が米国を離れ、新たな選択肢を求めているという衝撃的な現実を突きつけた。これは単なる人材流動の変化ではなく、世界の技術覇権の行方を左右しかねない地殻変動の始まりなのかもしれない。
データが暴く「米国離れ」:揺らぐ絶対的優位性
「米国はもはや、トップAI人材にとって当然の目的地ではない」。英国のデータインテリジェンス企業Zeki Dataが発表した「The State of AI Talent 2025」レポートは、そのような結論から始まる。長年、AI分野における米国の支配力を支えてきたのは、海外からの優秀な頭脳の流入であった。しかし、Zekiのデータはこの「供給網」が急速に細っていることを示唆している。実際に、米国へのトップAI人材の純流入を示す12ヶ月移動平均は、2022年頃をピークに急激な減少傾向に転じているのだ。
この傾向を裏付けるように、スタンフォード大学フーヴァー研究所のレポート「A Deep Peek into DeepSeek AI’s Talent and Implications for US Innovation」は、中国のAIスタートアップDeepSeekの事例を詳細に分析した。DeepSeekの目覚ましい成功は、強力な国内人材パイプラインによって支えられていた。DeepSeekの論文に関わった研究者の半数以上は、教育も職務経験も中国国内のみで完結しており、米国などの海外経験はなかった。さらに衝撃的なのは、研究者の約4分の1が米国の研究機関での経験を持っていたものの、その多く(63%)はわずか1年程度の滞在で中国に帰国していたという事実である。これは、米国の研究環境が、優秀な人材を育成・誘致する「インキュベーター」としては機能しても、最終的な「定着地」にはなっていない可能性を示唆している。まさに「逆頭脳流出」とも呼べる現象が起きているのだ。
Zekiのデータによれば、現在米国にいるトップAI人材(約32万2千人)のうち、実に40%が海外出身者だという。さらに、米国のAI企業の創業者5,023人のうち39%(1,943人)が海外からの移住者であることからも、米国がいかに海外人材に依存してきたかが分かる。この依存構造の根幹が揺らぎ始めているのかもしれない。
なぜ米国離れは加速するのか? 複合的な要因
なぜトップAI人材は米国から離れつつあるのだろうか? Zekiレポートはいくつかの複合的な要因を指摘している。
- 連邦政府による科学研究予算の削減: 2025年2月、米国政府は基礎研究の柱である国立科学財団(NSF)と国立衛生研究所(NIH)の予算削減を発表した。Zekiのデータによると、2013年から2023年の間に、AI関連の公的助成金の44%をNIHが、28%をNSFが占めていた。11万5千人以上のトップAI人材がこれらの資金提供の恩恵を受けてきたことを考えると、将来的な資金調達への不安が、米国の大学や研究機関でのポジションを求めるトップ研究者の意欲を削ぐ可能性は高いだろう。
- 大手企業によるソフトウェアエンジニア採用の鈍化: かつて米国のトップAI企業15社は、年間平均24%の成長率(2011-2014年)でソフトウェアエンジニアを採用し、その多くを海外人材に頼ってきた。しかし、AIエージェントによる業務自動化への期待が高まる中、これらの企業によるソフトウェアエンジニアの月間採用数はピーク時の3,000人超からほぼゼロにまで落ち込んでいる。この需要減退は、ソフトウェアエンジニアリング分野における海外からの高度AI人材の流入にも影響を与える可能性がある。
- 自国優先の「ソブリンAI」へのシフト: 各国が自国のAI能力強化に乗り出す中、米国もまた、国内でのAI開発・運用を重視する「ソブリンAI」へと舵を切る動きが、海外人材の誘致力低下に繋がっているとZekiは分析している。
- 専門分野の需要変化: 米国へ移住するトップAI人材の専門分野にも変化が見られる。2017-2018年と比較して、2023-2024年では、基盤モデル開発に不可欠なコアAIスキルを持つ人材の流入が増加する一方、半導体や防衛分野で重要視されるシリコンフォトニクスや原子層堆積技術といった分野の海外専門家の需要は相対的に大幅に減少している。この焦点の絞り込みは、特定の産業、特に半導体メーカーにとって懸念材料となる可能性がある。
移民政策に対する懸念も、海外人材にとって米国で働く魅力を相対的に低下させている要因の一つと考えられる。
世界的な人材獲得競争:新たなハブの台頭
米国の求心力が低下する一方で、他の国々はAI人材の獲得・維持に向けて積極的な動きを見せている。
- インド:供給者から消費者へ: Zekiは、インドが2025年に「トップAI人材の供給者から消費者へと転換する」と予測している。過去10年でインドのトップAI人材のグローバル市場シェアは倍増した。従来、インドで教育を受けた優秀な人材は米国企業に流れる傾向があったが(インドで初期教育を受けたトップAI人材の44%が現在国外在住)、米国への移住インセンティブの低下と、インド政府によるAIミッション(2024年3月開始、10,000基以上のGPU開発目標)の後押しにより、国内でキャリアを追求する人材が増加すると見られている。これは、これまでインド人材に依存してきた世界のAI市場、特に米国に大きな影響を与えるであろう。
- 欧州・湾岸諸国の巻き返し: かつて米国に人材を奪われてきた欧州や湾岸諸国も、AI人材の維持・奪還に力を入れている。カナダ(24億ドルのAI支援策)、シンガポール(10億ドルのAI計画)、UAEやサウジアラビア(MGXファンドなど大規模投資)、そして英国(エリートAI科学者・エンジニア獲得チーム設立、グローバルAI人材ビザ)などが具体的な動きを見せている。特に、多くの自国民が米国で活躍しているカナダと英国は、人材を取り戻す上で有利な立場にある。また、UAEやサウジアラビアのような国々は、豊富なインフラとエネルギー供給を背景に、必要なトップAI人材を迅速に確保できれば、AI分野での飛躍的な発展を遂げる可能性を秘めている。
- ロンドン:「責任あるAI」の中心地へ: Google DeepMindやAI安全研究所(AI Security Institute)が存在するロンドンは、「責任あるAI」分野における卓越した中心地としての地位を強化するとZekiは予測している。プライバシー、バイアス、公平性、倫理、説明可能性といった「責任あるAI」への関心は世界的に高まっており、この分野に注力するエコシステムは優秀な人材を引きつける上で有利になる。
特定分野での影響:専門人材の熾烈な争奪戦
AI人材の動きは、特定の技術分野や産業セクターにも大きな影響を与えている。
- LLM開発競争とGoogleの優位性: 次世代の大規模言語モデル(LLM)開発競争は、計算資源や最新AIチップへのアクセスだけでなく、それを開発できる限られた「エリート人材」の獲得競争でもある。Zekiは、LLM開発に直接関与した重要人物を3,600人と特定した。この分野では、GoogleとGoogle DeepMindが連携を強め、LLM開発人材の市場シェア35%を確保しており、OpenAIやMetaといった競合他社をリードする可能性があると分析されている。DeepSeekの成功は、計算コストや最新チップがなくとも、十分な「タレント」がいれば画期的な進歩が可能であることを示した。
- 創薬AIとBig Pharmaの戦略: 製薬大手(Big Pharma)はAIを創薬プロセスに応用しているが、自社で基盤モデルを構築するための高度な専門知識を持つチームへの大規模投資には消極的である。彼らはリスクの高いディープラーニングや強化学習といった分野への直接投資よりも、従来の計算手法に基づく人材採用を継続する一方、次世代AI技術については、AI企業やバイオテック企業との提携や買収を選択する傾向が続くと予測される。これは、ModernaとBioNTech(InstaDeepを買収)の対照的なアプローチにも表れている。
- NVIDIAの揺るがぬリーダーシップ: 市場アナリストの中にはNVIDIAの優位性が徐々に失われるとの見方もあるが、AIハードウェアエンジニアや研究者といった業界内部の人材動向は、依然としてNVIDIAへの強い支持を示している。競合他社からNVIDIAへの人材流入は続く一方、逆の動きは限定的である。特に並列コンピューティングやグラフィクス、視覚化の専門家を体系的に獲得することで、NVIDIAはAIチップ設計とエコシステム構築において競合(Intel, Qualcomm, AMD, IBM)に対する優位性を維持・強化している。さらに、ロボティクス分野、特に「デモンストレーションからのロボット把握と学習(Robotic Grasping and Learning from Demonstration)」という高度な専門分野(約3,150人しか存在しない)でもトップ人材を集積しており、CEO Jensen Huang氏が掲げる「ロボティクスはAIの次の波」というビジョンに向けた布石を着々と打っている。
- 量子コンピューティングとAIの交差点: 量子技術専門企業は、量子情報、計算、シミュレーションといったコア分野で、大手テック企業(Intel, Google, Microsoft, IBMなど)との人材獲得競争に苦戦している。さらに、「純粋な」AI企業(AnthropicやOpenAIなど)も量子物理学関連の専門知識獲得に関心を示しており、人材獲得競争は激化。大手金融機関(J.P. Morganなど)も量子コンピューティング研究チームを設立し、競争に参入している。限られた専門人材を巡るゼロサムゲームの様相を呈している。
- 医学研究への脅威:AIによる頭脳流出: 計算論的神経科学やDNAナノテクノロジー、バイオ分析アプリケーションといった分野では、テクノロジー企業(Google, Microsoft, Nvidia, Intelなど)とヘルスケア企業が同じ人材を異なる目的で奪い合っている。テック企業は、脳に着想を得たコンピューティングアーキテクチャや分子スケールのデータ処理システムを研究するためにこれらの専門家を採用しており、従来のヘルスケア・研究機関から人材が流出している。この「タレントエクソダス」は、ヘルスケア機関がこれらの先端技術を医学研究に応用する能力を著しく妨げる恐れがある。
- 防衛分野への人材流入: テクノロジー企業の採用が鈍化する一方で、防衛分野は複雑な課題と使命感に魅力を感じたトップAI人材を引きつけている。米国、欧州ともに防衛関連企業へのトップAI人材の流入は過去5年間で急増した(米国: 288%増, 欧州: 328%増)。特にAndurilのような「AIファースト」の防衛企業は、ソフトウェアエンジニアを高い比率で採用し、自律型兵器技術の核となる画像・センシング技術の専門家獲得に注力している。この分野は、ヘルスケアや量子分野とは異なり、大手テック企業との人材獲得競争において健闘する可能性を秘めている。
見えにくくなるトップタレント:採用戦略の課題
企業がAI採用ツールを導入し、人材ソーシングと獲得の効率化を図る動きが広がっているが、これにはリスクも伴う。Zekiは、これらのツールが既存のバイアスを増幅させ、大手企業間での人材ソーシングを偏らせる可能性があると警告している。既に、米国の「マグニフィセント・セブン (マグニフィセント・セブン)」(巨大テック企業群)内でトップAI人材が循環する傾向が強まっている。
一方で、トップカンファレンスへの参加経験やトップ大学出身といった従来の指標だけでは捉えきれない優秀な人材も多く存在する。Zekiの分析によると、「グローバルリーダー」と呼ばれる、過去5年間で最も影響力のある研究を行った個人の30%以上は、トップティアの大学出身ではなかった。また、需要の高い早期キャリアのトップAI人材の30%は、一般的なプロフェッショナルネットワーキングサイトでは見つけにくくなっている。
この状況は、画一的な採用基準に頼らず、積極的に「異端児」を探す企業、特に中小企業やスタートアップにとって好機となる。実際に、従業員50人未満の企業が獲得するトップAI人材の市場シェアは、過去5年間で着実に増加している。
示唆と今後どうすべきか?
DeepSeekの事例とZekiの広範なデータが示すのは、米国のAI分野における人材面の優位性が、もはや安泰ではないという厳しい現実である。フーヴァー研究所が提言するように、輸出規制や計算資源への投資といった従来の政策だけでは不十分であり、米国が以前のように世界最高の人材を引きつけるためには、彼らを歓迎し、維持するための競争にもっと積極的に取り組む必要があるだろう。同時に、国内のSTEM教育(科学・技術・工学・数学)を強化し、自国の人材育成能力を高めることも急務だ。
これは単なる米国の課題ではない。世界的なAI人材の流動性向上と獲得競争の激化は、各国政府、企業、研究機関にとって、自らの人材戦略を見直す契機となるだろう。AIの未来は、より速いチップやより大きなモデルだけでなく、最も賢明な「グローバル人材戦略」を持つ国や組織によって形作られていくのかもしれない。AI覇権の鍵を握る「頭脳」の争奪戦は、まだ始まったばかりなのだ。
Sources
- Hoover Insititute: A Deep Peek into DeepSeek AI’s Talent and Implications for US Innovation
- Zeki Data: US Sets Off Major Global Shift of Top AI Talent