ミクロな世界を支配する量子力学の方程式は、原理的に時間を逆向きにたどれる可逆的な性質を持つ。一方、熱湯と冷水を混ぜてできたぬるま湯が、自然に元の熱湯と冷水へ分かれることはない。私たちが暮らすマクロな世界では、このように一方向にしか進まない変化があり、熱力学第二法則によって説明される。可逆的な量子力学の法則から、なぜ不可逆的な熱力学の法則が生まれるのか。 これは物理学における長年の根本的な問題だった。
この問題に対し、理化学研究所と東京大学、大阪大学の共同研究チームが、数学的に厳密な説明を与える新たな理論を構築した。研究には理化学研究所の千葉侑哉客員研究員、濱崎立資理研白眉研究チームリーダー、米田靖史客員研究員、東京大学の清水明特任研究員・名誉教授らが参加した。理化学研究所が2026年11月4日に発表した研究成果によると、チームは熱平衡状態と外部からの操作を量子力学の枠組みで定義し、一定の条件下で熱力学第二法則が成立することを証明した。論文は11月3日付(日本時間11月4日)で学術誌『PRX Quantum』に掲載された(第7巻、043023、DOI: 10.1103/3y8f-yrp8)。
今回の成果は、実験や数値シミュレーションによる検証ではなく、理論物理学における数学的な証明である。重要なのは、量子力学そのものを変更するのではなく、熱力学で扱う物理量と操作の範囲を明確にした点だ。これにより、可逆的な量子力学と不可逆的な熱力学が、同じ物理系で矛盾なく成立する仕組みを説明している。
可逆的な量子力学と不可逆的な熱力学の矛盾
外界から切り離された量子系の時間発展は、シュレディンガー方程式に従う。この時間発展は「ユニタリ変換」と呼ばれる数学的な操作で表され、逆向きの変換を施せば元の状態に戻せる。つまり、孤立した量子系の基本方程式では情報が失われず、時間発展そのものは可逆的である。
ところが、量子力学で数学的に許されるあらゆるユニタリ操作を熱力学系にも適用できると仮定すると、問題が生じる。近年の研究から、量子状態が確率的に混ざり合っていない「純粋量子状態」であっても、マクロな観測では熱平衡状態と区別できない場合があることが分かってきた。しかし、任意のユニタリ操作を許せば、そのような純粋状態からでもエネルギーを取り出し、別の純粋状態へ変化させられる。
これは熱力学第二法則の一つの表現である「プランクの原理」と矛盾する。プランクの原理は、熱平衡状態にある閉じた系に対し、外部の制御条件を最終的に元へ戻す操作を行っても、正味の仕事を取り出せないという法則だ。例えば、断熱容器内の気体をピストンで膨張・圧縮させ、ピストンを元の位置に戻す操作が該当する。
もう一つの問題が、エントロピーの定義にある。量子情報理論で一般的に用いられる「フォン・ノイマンエントロピー」は、量子状態がどれだけ確率的に混ざっているかを表す量であり、系全体が純粋量子状態なら常にゼロとなる。しかし、純粋量子状態がマクロには熱平衡を表している場合、その熱力学エントロピーは一般にゼロではない。量子力学で定義されるエントロピーと、熱力学で扱うエントロピーが一致しないのである。
研究チームは、こうした矛盾の原因を、量子力学で許される操作のすべてを熱力学的な操作と見なしていたことに求めた。数学的には、物質を構成する約10²³個もの粒子の状態を一つずつ精密に制御する操作も考えられる。しかし、実際の熱力学で扱うのは、磁場や容器の体積などを通じて系全体に作用する操作であり、個々の粒子を自由自在に制御するものではない。この違いを厳密に定義することが、研究の出発点となった。
熱平衡状態を定義する「iMATE」とマクロ操作
研究チームはまず、熱力学で意味を持つ物理量に着目した。エネルギーや粒子数、全磁化などは、系を複数の部分に分けたとき、それぞれの部分からの寄与を足し合わせて全体の値を求められる。こうした性質を持つ量を「相加物理量(additive observable)」と呼ぶ。
この性質を使って導入されたのが、新たな熱平衡の概念「iMATE(infinite-observable macroscopic thermal equilibrium)」である。iMATEは、系全体や一定の大きさを持つ部分系について、すべての相加物理量のマクロな値が、対応する熱平衡状態の値と一致する量子状態を指す。この定義では、量子状態が純粋状態か混合状態かは問わない。微視的には純粋量子状態であっても、マクロな物理量が熱平衡の値を示していれば、熱力学的な平衡状態として扱える。
続いて、熱力学的な操作に相当する量子力学的操作を「マクロ操作」として定式化した。これは、外部磁場やピストンの位置など、有限個の外部制御変数を時間的に変化させ、それらが相加物理量と結合するハミルトニアンによって量子状態を変化させる操作である。ハミルトニアンは、系のエネルギーや時間発展を決める数学的な量を指す。マクロ操作もユニタリ時間発展に従うため、量子力学の可逆性は保たれる。
ここで重要なのは、外部から制御できる変数を有限個に制限したことだ。磁場や容器の境界条件を変えることは許されるが、物質内部の膨大な自由度を一つずつ操作することは認められない。これにより、数学的には可能な量子操作の中から、熱力学的に意味のある操作だけを取り出せる。
なお、ここでいう「断熱操作」は、外界との熱交換を伴わず、外部から仕事をやりとりする操作を意味する。量子力学の断熱定理に登場する、パラメーターを極めてゆっくり変化させる操作とは異なる概念であり、急激な制御変数の変化も含まれる。
プランクの原理を量子力学から証明
iMATEとマクロ操作を定義した研究チームは、まずプランクの原理を数学的に導いた。対象は、iMATEにある量子状態から出発し、外部制御変数を最終的に初期値へ戻す「周期的なマクロ操作」である。例えば、ピストンを動かした後に元の位置へ戻したり、磁場を変化させた後に元の強さへ戻したりする操作が該当する。
研究チームは、系を無限に大きくする熱力学的極限において、操作時間が系のサイズに依存しない場合、周期的なマクロ操作によって巨視的な量のエネルギーを取り出すことはできないと証明した。閉じた系ではエネルギーの減少が外部へ取り出す仕事に相当するため、これはプランクの原理そのものを意味する。しかも、この結果はiMATEを満たす量子状態であれば、純粋量子状態にも成立する。
任意のユニタリ操作を許した場合には、純粋状態から仕事を取り出せてしまう。しかし、操作を有限個の外部変数によるマクロ操作に限定すると、熱力学で禁止される巨視的な仕事の取り出しが不可能になる。量子力学の基本方程式を変更せず、許容される操作の範囲を定めることで、熱力学との整合性を示したのである。
ただし、この原理が禁止するのは、外部制御変数を元に戻す周期的な操作による正味の仕事の取り出しである。ピストンを膨張させたままにするなど、制御変数を初期値へ戻さない操作では、熱力学的にも仕事を取り出せる。今回の証明は、こうした非周期的な操作を禁止するものではない。
新たなエントロピーの定義から増大則を導出
続いて研究チームは、熱力学第二法則のもう一つの表現である「エントロピー増大則」の証明に取り組んだ。課題となったのは、純粋量子状態におけるエントロピーの定義である。系全体のフォン・ノイマンエントロピーを用いる限り、純粋状態の値は常にゼロとなり、熱力学エントロピーの変化を適切に表せない。
そこで導入されたのが「量子マクロエントロピー密度」だ。これは、一定の大きさを持つ局所領域の量子状態を空間的に平均し、そこから得られる状態のフォン・ノイマンエントロピーを使って定義する量である。系全体の微視的な状態だけを見るのではなく、局所領域の状態を平均化することで、マクロな熱力学に対応するエントロピーを捉える。
研究チームは、この量子マクロエントロピー密度が、iMATEを満たすすべての量子状態について、熱力学エントロピー密度と一致することを数学的に証明した。全系が純粋量子状態であっても、この関係は成立する。つまり、微視的には純粋性を保ちながら、マクロには熱力学的なエントロピーを持つ状態を、量子力学の中で矛盾なく表現できるようになった。
さらに、iMATEにある系へマクロ操作を加え、その後、外部制御変数を一定に固定して緩和させる過程を解析した。マクロ操作によって系が熱平衡から外れても、外部条件を固定すれば、内部の相互作用によって状態が変化していく。研究チームは、この緩和過程に物理的に自然な条件を置くことで、操作と緩和の前後で量子マクロエントロピー密度が減少しないことを証明した。
緩和後に系が再び熱平衡状態へ達する通常の熱力学系では、この結果は「断熱操作によって熱力学エントロピーは減少しない」というエントロピー増大則に相当する。こうして研究チームは、周期的な操作から巨視的な仕事を取り出せないというプランクの原理と、エントロピーが減少しないという増大則を、それぞれ独立した定理として導出した。両者は量子力学的には異なる命題だが、マクロな物理量と操作を適切に定義することで、どちらも同じ量子力学の枠組みから説明できる。
今回の研究と、任意の微視的操作を許す従来の理論的設定との違いを整理すると、次のようになる。
| 比較項目 | 任意の微視的操作を許す設定 | 今回の研究 |
|---|---|---|
| 熱平衡状態 | 純粋状態も熱平衡を表し得るが、第二法則との整合性が問題になる | 相加物理量に基づくiMATEで定義 |
| 許される操作 | 任意のユニタリ操作 | 有限個の外部制御変数によるマクロ操作 |
| エントロピー | 全系のフォン・ノイマンエントロピーなど | 量子マクロエントロピー密度 |
| 純粋状態のエントロピー | 全系のフォン・ノイマンエントロピーはゼロ | iMATEでは熱力学エントロピー密度と一致 |
| 仕事の取り出し | 純粋状態から仕事を取り出す操作が可能 | 一定の時間条件下で、周期的マクロ操作による巨視的な仕事の取り出しを禁止 |
| エントロピー増大則 | 全系のフォン・ノイマンエントロピーでは熱力学的な増大を表せない | マクロ操作と所定の緩和過程について非減少を証明 |
今回の理論では、量子状態そのものに新たな不可逆性を仮定していない。観測する物理量、熱平衡状態、外部からの操作を熱力学に即して定義することで、可逆的な量子時間発展と熱力学第二法則を両立させている。
長時間の操作では第二法則に反する例も、残された課題
今回の成果には、重要な適用条件がある。研究チームが厳密に証明したのは、系を大きくしていく熱力学的極限において、マクロ操作に必要な時間が系のサイズに依存せず、有限の範囲にとどまる場合である。操作に要する時間まで無制限に長くしてよいわけではない。
実際の熱力学では、ピストンを極めてゆっくり動かし、系をほぼ平衡状態に保ちながら変化させる準静的過程が重要な役割を果たす。系が大きくなれば、熱や圧力などの変化が全体に伝わるまでの時間も長くなるため、準静的操作に必要な時間が系のサイズとともに増大する場合がある。こうした操作は、今回の証明の適用範囲には含まれていない。
研究チームは、操作時間が系のサイズとともに長くなる場合に、今回の理論をそのまま拡張すると、熱力学第二法則に反する数学的な反例を構成できることも明らかにした。これは、任意の長時間操作について、現在のマクロ操作の定義だけでは第二法則の成立を保証できないことを意味する。ただし、現実の物質で第二法則が破れると実証されたわけではない。むしろ、長時間操作でも第二法則を成立させるには、量子状態や外部制御に追加の条件が必要であることを示唆している。
今後は、その追加条件を特定することが課題となる。例えば、量子多体系のカオス性やエルゴード性、局所的なエネルギー輸送・緩和の性質などが関連する可能性は考えられるが、どの条件が必要なのかは今回の研究で確定していない。研究チームは、さまざまな量子力学的時間発展を模擬できる量子シミュレーターを使い、長時間操作における反例や第二法則の成立条件を検証することにも期待を寄せている。冷却原子系や超伝導回路などを用いた量子シミュレーションは、そのための研究手段となり得るものの、本論文で実験的な検証が完了したわけではない。
今回の研究は、量子力学と熱力学の矛盾を解消するうえで、外部からどのような操作が可能かという物理的制約が重要であることを数学的に明らかにした。純粋量子状態からも熱力学第二法則を導けることを示した一方、長時間操作にまで理論を拡張するには、なお解決すべき問題が残る。可逆的な量子力学からマクロな不可逆性が現れる条件をさらに明確にできるかが、今後の理論研究と量子シミュレーションによる検証の焦点となる。



