航空機や自動運転車が現在位置を把握するとき、センサーの測定値には必ず雑音が混ざる。走行中に得られるデータから現在位置をリアルタイムで推定する処理は「フィルタリング」と呼ばれる。一方、走行データをすべて記録した後、ある地点を通過した瞬間の位置を前後の観測記録から改めて推定する処理が「スムージング(平滑化)」だ。後の時刻に得られた情報も利用することで、センサーに含まれるランダムな誤差の影響を抑え、過去の軌跡をより正確に復元できる。これは古典的な信号処理で広く使われている手法である。

しかし、後の観測記録を利用して過去の状態を精密に推定するという考え方を、量子系にそのまま適用することはできない。量子力学では、測定そのものが対象の状態に影響を及ぼすためだ。古典的な確率計算を単純に適用すると、ハイゼンベルクの不確定性原理に反するほど位置と運動量の揺らぎが同時に小さくなったり、確率分布として解釈できない値が現れたりするなど、物理的に許されない推定結果が生じる場合がある。

理化学研究所(理研)量子コンピュータ研究センター光量子制御研究チームの横山翔竜上級研究員、米澤英宏チームディレクター、東京大学大学院工学系研究科のワリット・アサバナント助教(研究当時)らの国際共同研究グループは、光共振器から漏れ出る光を使った実験系を構築し、量子力学の原理を満たしながら過去の量子状態を推定する「量子状態スムージング」の実証に成功した。研究成果は2026年10月21日付の学術誌『npj Quantum Information』オンライン版に掲載された。

量子状態スムージングで利用する「未来の観測」とは、因果関係を逆転させたり、これから起こる現象を予知したりするものではない。測定がすべて終了した後、保存された時系列データのうち、推定対象の時刻よりも後に記録された情報を参照する事後解析である。過去の量子状態そのものを変えるのではなく、観測者がその状態について持つ情報を増やし、推定精度を高める技術だ。

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量子力学と矛盾せずに過去の状態を推定する理論

量子状態スムージングの難しさは、量子力学における測定の性質にある。ある時刻$t$の量子状態を推定する場合、通常の量子フィルタリングでは、測定開始から時刻$t$までに得られた観測信号を順次利用して状態を更新する。因果関係に沿って情報を蓄積するため、適切な量子モデルに基づく推定結果は、正値性やトレースが1であることなど、物理的な密度行列に必要な条件を満たす。

一方、時刻$t$より後の時刻$T$までに得られたデータも利用して、時刻$t$の状態を推定するスムージングは、古典制御理論では半世紀以上にわたって使われてきた。しかし、量子系では、時刻$t$から$T$までに行われた測定の反作用や、環境への情報の散逸も考慮しなければならない。古典的なベイズ推定を単純に適用すると、量子力学の不確定性関係を破るような、実際には存在し得ない状態が導かれてしまう場合がある。

この問題に対し、2015年にオーストラリアのグリフィス大学に所属するHoward M. Wiseman教授とIvonne A. Guevara博士が提案したのが「量子状態スムージング」の理論である(DOI: 10.1103/PhysRevLett.115.180407)。

Wisemanらは、状態を推定する観測者が取得できなかった情報が、周囲の環境へ流出していることに着目した。そして、観測者「Alice」が把握できない環境側の情報を、別の観測者「Bob」がすべて測定していると仮定する理論モデルを導入した。Aliceは、自分が取得した時刻$t$以前と以後の観測記録を利用し、Bobがどのような測定結果を得た可能性が高いかを統計的に推定する。その上で、Bobの各測定結果に対応する物理的に妥当な量子状態を、推定した確率で重み付けして平均化する。

この方法では、平均化の対象となる個々の状態が量子力学の条件を満たしているため、それらを確率的に組み合わせた推定状態も物理的に妥当なものとなる。つまり、不確定性原理を破るような非物理的な解を避けながら、後の観測記録を利用して過去の状態推定を改善できる。2015年の研究は、その理論的な基盤を築いた。

ただし、推定精度を実験で検証するには、比較対象となる「真の状態」が必要になる。これは、対象の量子系がその時刻に実際にはどのような状態にあったかを表す基準だ。ところが、通常の量子実験では、環境へ散逸した情報を完全に把握することは難しい。そのため、スムージングによって得られた推定結果が、従来のフィルタリングよりも真の状態に近づいたかどうかを直接検証することが課題となっていた。

二つの検出器で「隠された観測者」を再現

研究グループは、量子状態スムージングの精度を検証するため、光学実験系にAliceとBobに相当する二つの観測経路を設けた。これにより、通常は観測者から隠されている情報を別の検出器で記録し、推定結果の評価に利用できるようにした。

実験対象は、光共振器内部に生成された「スクイーズド光」である。スクイーズド状態とは、光の電場を表す互いに直交する二つの直交位相成分のうち、一方の量子揺らぎを真空状態の揺らぎよりも小さく抑えた状態を指す。これらの成分は、古典力学における位置$x$と運動量$p$に対応する関係にあり、不確定性原理によって、一方の揺らぎを抑えると他方の揺らぎが増大する。スクイーズド光は、高精度な量子計測や光量子計算で重要な役割を担う。

研究チームは、光共振器から外部へ漏れ出る光をビームスプリッターで二つの光路に分割した。一方にはAliceに相当するホモダイン検出器を配置し、もう一方にはBobに相当する別のホモダイン検出器を設置した。ホモダイン検出は、基準となる光と測定対象の光を干渉させ、特定の直交位相成分を測定する手法である。この構成により、Aliceからは見えない観測情報をBob側で記録し、理論で想定された二人の観測者を実験室内に再現した。

手法・役割 使用した観測データ 実験における役割 留意点
従来のフィルタリング Aliceの過去記録(0から$t$まで) リアルタイム推定を模した比較基準 時刻$t$以降の観測データは参照しない
量子状態スムージング Aliceの過去記録(0から$t$)と未来記録($t$から$T$) 事後解析による高精度な状態推定 Bobの測定データは推定計算に使用しない
基準状態(真の状態) AliceとBob双方の過去記録(0から$t$まで) 推定精度を評価するための基準 精密に較正された実験モデルに基づいて導出される

スムージングの計算では、Bobの観測記録を一切使用していない。Aliceは、自分が取得した時刻$t$以前と以後の測定データだけを利用し、理論モデルに基づいて過去の共振器内部の量子状態を推定する。これに対してBobの測定データは、Aliceの推定結果を評価するための基準状態を求める際に使用された。

基準状態の算出には、AliceとBobが時刻$t$までに取得したすべての測定記録を利用する。これらを、光学損失や検出効率などを精密に測定・較正した物理モデルに入力し、時刻$t$における共振器内部の状態を求めた。Alice単独では取得できない情報も反映されるため、スムージングの推定結果がどの程度改善されたかを定量的に評価できる。

ただし、この「真の状態」は、共振器内部を直接観測して得られた絶対的な基準ではない。AliceとBobの測定記録、および較正された実験モデルを前提として導出された状態である。その信頼性は、実験系の光学定数や損失、検出効率などがどれだけ正確に把握されているかに依存する。

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純度とスクイージングの推定誤差が縮小

実験では、AliceとBobのホモダイン検出器の測定位相角(および)を変化させながら、光共振器内部の量子状態の時間発展を追跡した。ナノ秒(10億分の1秒)単位で変化する光の電場成分について、従来のフィルタリングと、後の観測記録も利用するスムージングのそれぞれで推定軌跡を算出した。さらに、両者を基準となる真の状態の軌跡と比較し、推定精度を評価した。

その結果、スムージングによって得られた平均値の軌跡は、フィルタリングによる軌跡よりも真の状態に近いことが確認された。状態の不確定さを表す共分散についても、スムージングの方が真の状態との差を小さく抑えられた。後の観測記録を利用することで、過去の量子状態に対する推定精度が改善することを実験的に示した結果である。

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  "title": "量子状態推定における真の状態とのギャップ削減率",
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  "categories": ["状態の純度(Purity)", "スクイージングレベル(Squeezing)"],
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  ],
  "caption": "それぞれ改善が最大となるよう検出条件を個別に最適化した測定点での値。誤差範囲は純度が±1.6%、スクイージングが±2.6%",
  "source": "理化学研究所・東京大学プレスリリースおよび原論文データ"
}

推定精度の定量評価には、「純度(Purity)」と「スクイージングレベル」の二つの指標が使われた。純度は、量子状態がどれだけ純粋な状態に近いかを表し、完全な純粋状態では1、雑音などによって混合状態になると1より小さくなる。フィルタリングでは観測できない情報が残るため、推定状態には不確定さが含まれ、純度が低い混合状態として表されることがある。一方、スクイージングレベルは、光の特定の直交位相成分における量子揺らぎが、真空状態と比べてどの程度圧縮されているかを表す指標だ。

研究グループは、AliceとBobの測定条件を変えながら、二つの指標についてフィルタリングとスムージングの推定結果を比較した。それぞれの指標で改善が最大となる条件を選んだ結果、真の状態との隔たりは次のように縮小した。

  • 純度の改善: フィルタリングによる推定状態と真の状態の間にあった純度の差が、スムージングによって10.3±1.6%縮小した。
  • スクイージングの改善: スクイージングレベルについても、真の状態との差が7.6±2.6%縮小した。

これらの数値は、実際の光の純度が10.3%向上したり、スクイージングが7.6%強まったりしたことを意味しない。光共振器内部の物理状態が事後的な解析によって変化するわけではなく、観測者が推定した状態と真の状態との差が小さくなったことを表している。また、比較対象となったギャップの絶対値は、公表資料からは確認できない。

10.3%と7.6%という改善率も、あらゆる測定条件で一様に得られる数値ではない。AliceとBobの検出角度を変化させ、純度とスクイージングのそれぞれについて改善が最大になるよう個別に最適化した条件で得られた値である。したがって、測定条件が異なる量子系に対しても同じ割合の改善が得られるとは限らない。

線形ガウス量子系という適用条件とモデルへの依存性

今回の実験で量子状態スムージングを解析的に計算できたのは、対象が「線形ガウス量子系」だったためである。2019年、シンガポール国立大学のKiarn T. Laverick博士、Areeya Chantasri准教授、Wiseman教授らは、状態の時間発展と測定が線形モデルで記述でき、状態の確率分布がガウス分布(正規分布)の形を保つ量子系について、スムージング状態を解析的に求める計算手法を導出した(DOI: 10.1103/PhysRevLett.122.190402)。

光共振器内部のスクイーズド状態とホモダイン検出器の組み合わせは、線形ガウス量子系の典型例である。ガウス状態は、平均値ベクトルと共分散行列という有限個のパラメータだけで完全に記述できる。そのため、一般的な量子状態の推定に比べて計算を大幅に簡略化でき、過去と未来の観測記録を利用したスムージングを効率的に実行できる。今回の実証も、この数学的な性質を利用している。

一方、ガウス分布では記述できない非ガウス状態への適用は、今回の実験では検証されていない。量子計算において重要な「魔法状態(Magic State)」やシュレーディンガーの猫状態などは、非ガウス性を持つ代表的な量子状態である。こうした状態を扱うには、ガウス状態の平均値と共分散だけで記述する今回の計算手法を、そのまま適用することはできない。より一般的な量子状態を対象とした推定理論や計算手法が必要になる。

実験系の精密なモデル化も、推定精度を支える重要な条件となっている。今回の構成では、Aliceの観測経路から得られない情報がBob側でどのように測定されるかを把握し、光学損失や検出効率を含む物理モデルに反映している。しかし、より複雑な量子系では、環境への情報流出経路が未知であったり、測定器の雑音特性を正確に把握できなかったりする可能性がある。こうしたモデルの不完全さや較正誤差が存在する場合にも、スムージングによる推定精度の改善が維持されるかは明らかになっていない。

したがって、今回の成果は、精密に制御・較正された光共振器を用いて量子状態スムージングの有効性を初めて実験的に検証したものと位置づけられる。線形ガウス量子系で成立する結果が、非ガウス状態や環境との相互作用が複雑な量子系にどこまで拡張できるかは、今後の研究に委ねられている。

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測定誘起型量子計算などの事後解析への応用

量子状態スムージングは、測定が終了した後に記録を解析する手法であるため、主な応用先も事後的な状態推定やデバイス評価となる。リアルタイム制御では、まだ得られていない未来の観測記録を利用できないため、スムージングをそのまま即時のフィードバック処理に組み込むことはできない。今回の実証によって、量子センサーの物理的な感度や量子コンピュータの演算速度が直接向上するわけではない。

応用が期待される分野の一つが、測定誘起型量子コンピュータの状態解析である。この方式では、あらかじめ多数の量子ビットがもつれ合ったクラスター状態を用意し、各量子ビットを順次測定することで計算を進める。測定結果に応じて後続の測定条件や論理演算が変化するため、計算途中の量子状態を適切に把握することが重要となる。計算終了後に一連の測定記録を解析できれば、特定の段階で量子状態が設計通りに推移していたかを評価する手掛かりになる。

過去の測定記録だけでなく、その後に得られた記録も利用することで、計算途中の量子状態や純度を従来より精密に再構成できる可能性がある。さらに、デコヒーレンスによって量子状態がどのように変化したかを事後的に分析できれば、誤り訂正プロトコルの評価や、計算過程で生じたエラーの原因調査にも役立つと考えられる。ただし、こうした応用は今回の光共振器実験で直接検証されたものではなく、実際の測定誘起型量子計算で有効性を示すには、対象となる量子状態や測定過程に応じた理論・実験の拡張が必要になる。

量子状態スムージングの本質は、後の時刻に得られた観測記録を利用し、量子力学の原理に従って過去の状態推定を改善することにある。今回の研究は、その効果を線形ガウス量子系の光学実験で定量的に実証した。今後は、非ガウス状態への拡張に加え、モデルの不完全さや測定誤差に対する頑健性を検証し、実際の量子デバイスの評価や計算過程の解析に利用できるかが重要となる。