水中の微小な粒子を顕微鏡で観察すると、水分子との衝突によって不規則に動き続ける。ブラウン運動と呼ばれるこの現象は、熱揺らぎが微小粒子の運動として現れたものだ。1867年、物理学者ジェームズ・クラーク・マクスウェルは、こうした分子の熱運動を監視し、速度に応じて分子を選別する仮想的な存在を考案した。後に「マクスウェルの悪魔」と呼ばれるようになった思考実験である。

この思考実験では、分子の運動に関する情報を利用することで、外部から仕事を加えずに温度差を作り出せるように見える。そのため、熱力学第二法則に矛盾するのではないかという問題が生じた。しかし、現代の情報熱力学では、測定による情報の取得と、それを利用するフィードバック制御、さらには記録媒体の消去まで含めて考えることで、この問題を説明できる。情報の処理も物理的な過程であり、装置を含めた全体の熱力学的収支を考慮すれば、第二法則が破られるわけではない。

この考え方は、微小な系から仕事を取り出す「情報熱機関」の研究へと発展した。粒子の位置などを測定し、その結果に応じて外部から制御を加えることで、熱揺らぎを利用して仕事を取り出す仕組みだ。ただし、従来の実験研究の多くは、粒子を取り巻く環境が過去の履歴を保持しないという、単純化された条件を前提としていた。

ドイツのコンスタンツ大学とマックス・プランク動力学・自己組織化研究所の研究チームは、この前提を超える実験に成功した。研究を行ったのはLokesh Muruga、Felix Ginot、Sarah A. M. Loos、Clemens Bechingerの4人で、成果は2026年10月16日付の学術誌『Nature Physics』に、「The extraction of work from hidden degrees of freedom」(DOI: 10.1038/s41567-026-03442-w)として掲載された。なお、研究のプレプリントは2026年3月6日にarXivへ登録されているが、本稿では査読を経た正式論文を主な根拠とする。

研究チームが示したのは、直接観測できない流体の微細構造に残された「記憶」を手がかりに、従来の記憶を持たない環境を仮定した理論上限を超える仕事を取り出せるということだ。これは熱力学第二法則に反するものでも、無からエネルギーを生み出すものでもない。熱平衡下の揺らぎによって生じ、測定結果に応じて利用可能になる複合系の過剰自由エネルギーを、環境に残された記憶を通じて回収できることを確かめたのである。

この記憶の影響は、測定の時間間隔によって大きく変わる。間隔が短すぎても長すぎても効果は弱まり、特定の時間帯で最も顕著になる。研究チームは非マルコフ性を表す指標として秩序変数を導入し、測定間隔が約1秒のときに記憶の影響が最大になることを確認した。

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見えないミセル網を「隠れた自由度」として扱う

物理学では、ある時点の状態が分かれば、その後の振る舞いを予測するために過去の履歴を知る必要がない性質を「マルコフ性」と呼ぶ。水のような単純な液体では、分子同士の衝突による相関が極めて短い時間で失われるため、十分に長い時間スケールで見れば、コロイド粒子の運動をマルコフ過程として良好に近似できる。このモデルでは、環境が粒子との相互作用によって受け取った情報やエネルギーは速やかに散逸し、過去の運動履歴が将来の振る舞いに影響しないと考える。

一方、過去の履歴が現在の運動に影響を与える性質は「非マルコフ性」と呼ばれる。高分子溶液や生体細胞の内部など、複雑な構造を持つ流体では、粒子が動くと周囲の分子構造も変形し、元の状態に戻るまでに一定の時間を要する。変形が残っている間は、粒子が過去にどのように動いたかという情報が環境に保持される。その結果、環境は単なる熱の散逸先ではなく、粒子の過去の運動を記憶する媒体として振る舞う。

研究チームは、この非マルコフ性を調べるため、直径2.7 \mu\mathrmのコロイド状シリカ粒子を用いた。粒子を分散させたのは、塩化セチルピリジニウム一水和物(cetylpyridinium chloride monohydrate)とサリチル酸ナトリウム(sodium salicylate)を、それぞれ8 mMの等モル濃度で混合した粘弾性ミセル溶液である。一般的な水とは異なり、この溶液には変形に抵抗する弾性と、流動する粘性の両方が備わっている。

室温では、溶液中の界面活性剤分子が細長いひも状のミセルを形成し、互いに絡み合うことで動的な網目構造を作る。このミセルネットワークの構造緩和時間は約6秒で、粒子の運動によって生じた変形は、この時間スケールで徐々に緩和される。つまり、粒子が移動しても周囲の網目はすぐには元に戻らず、過去の変形に関する情報がしばらく残り続ける。

実験では、集光したレーザー光を使う「光ピンセット」によってシリカ粒子を捕捉し、調和ポテンシャルと呼ばれる、中心からの距離の2乗に比例してエネルギーが増える場に閉じ込めた。粒子の位置は毎秒100回の頻度で記録され、空間分解能は\pm 5\mathrmに達した。これにより、熱揺らぎによる粒子の微小な変位と、その時間変化を詳細に追跡できる。

重要なのは、研究チームが直接観測したのはシリカ粒子の位置だけであり、周囲のミセルネットワークの変形を個別に観察したわけではないという点だ。ミセル同士の絡まり合いや内部の変形状態は、観測できない「隠れた自由度(hidden degrees of freedom)」として扱われた。研究チームは、粒子の位置を異なる時刻に測定し、その後の運動を解析することで、見えない環境に残された記憶の影響を間接的に読み取ろうとした。

従来の単純な熱機関モデルでは、観測できない環境の自由度は、主にエネルギーや情報が散逸する先として扱われてきた。しかし今回の研究では、こうした自由度が保持する時間的な相関も、仕事の抽出に利用できる可能性を検証した。環境の内部構造を直接観測したり制御したりすることなく、その記憶を利用できるかが実験の焦点となった。

1秒間隔の二重測定で、流体に残る記憶を捉える

研究チームは、環境の記憶を読み取るために、粒子の位置を時間差で2回測定する「二重測定プロトコル」を採用した。最初に粒子の位置を測定し、一定の時間間隔を空けて、もう一度位置を測る。各測定では、あらかじめ設定した位置を境に粒子が左右どちらの領域にあるかを判定し、結果を0または1の二値で記録した。

2回の測定結果の組み合わせは、、、、の4通りとなる。左側の数字が1回目、右側の数字が2回目の測定結果を表す。例えばは、最初の測定で粒子が閾値の右側(状態1)にあり、時間が経過した2回目の測定では左側(状態0)へ移動していたことを意味する。

測定間隔を1秒に設定すると、特徴的な現象が現れた。2回目の測定で同じ状態0に分類された粒子でも、1回目の測定結果が0だった場合と1だった場合では、その後の緩和挙動が明らかに異なっていたのである。研究チームは300秒間の軌道データを用い、各条件について約1,000回の測定結果を平均して緩和曲線を求めた。

マルコフ的な環境であれば、現在の粒子の状態が同じなら、それ以前の位置履歴によって将来の運動が変わることはない。しかし今回の粘弾性流体では、粒子の過去の運動によってミセルネットワークが変形し、その影響が時間差を伴って粒子に返ってくる。したがって、2回目の測定で粒子が同じ領域にいたとしても、過去にどのように移動してきたかによって、その後の緩和が変わるのである。

特に顕著だったのが、の状態だ。この条件では、粒子の平均ポテンシャルエネルギーが一時的に増加し、その後、平衡状態へ向かって減少するという非単調な緩和が観測された。通常の緩和であればエネルギーは平衡値に向かって減少するが、今回は途中で増加する時間帯が存在した。研究チームはこれを、周囲のミセルネットワークに蓄えられたエネルギーが粒子へと戻る「エネルギーの逆流」を示す実験的な証拠と解釈している。

この解釈を確かめるため、研究チームは測定間隔を200秒まで延ばした対照実験も行った。ミセルネットワークの構造緩和時間である約6秒を大幅に超える間隔を空けると、1回目の測定結果による緩和挙動の違いは、実験上ほぼ確認できなくなった。周囲の網目が十分に緩和し、最初の測定時点に関する情報が、その後の粒子の運動に影響しなくなったと考えられる。また、測定間隔をゼロに近づけた単一測定の極限でも、過去の履歴による追加的な効果はほとんど現れなかった。

研究チームは、この記憶の影響を定量化するため、秩序変数を導入した。単に2回の測定後の位置分布を比較するだけでは、測定直後の粒子の状態が異なることによる影響と、環境の記憶による影響を区別できない。そこで、測定直後の粒子の位置分布を一致させた、過去の履歴を考慮しない対照分布を構成し、その後の情報の減衰を比較した。こうして、初期条件の違いでは説明できない履歴依存性を抽出したのである。

は、粒子の位置に関する情報が、履歴を考慮しない対照系と比べてどのように減衰するかを表す指標だ。であれば、過去の履歴による影響がほとんどなく、マルコフ的な振る舞いと整合する。一方、正の値は情報の減衰が遅くなることを、負の値は逆に減衰が速くなることを意味し、いずれもゼロからのずれは環境の記憶が運動に影響していることを表す。

実験では、が測定間隔秒で明確な最大値を示した。これは、ミセル網の変形に過去の情報が残っており、なおかつ粒子の現在の運動に影響を及ぼせる時間帯に対応する。測定間隔が短すぎると過去と現在の違いを十分に捉えられず、長すぎると環境の記憶が失われる。約1秒という時間間隔が、隠れた自由度からの情報の逆流を最も明瞭に捉えられる条件だった。

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「理論上限の3倍」が意味するものと、測定結果による違い

環境の記憶を捉えた研究チームは、次にその情報を仕事の抽出へと利用した。2回目の位置測定が終わった直後、光ピンセットの捕捉中心を一定速度で3秒間移動させた。粒子を閉じ込める調和ポテンシャルの形状を変えず、位置だけを平行移動させる操作である。この操作中の粒子の位置とポテンシャルの移動量から、系から取り出された仕事$W$を計算した。

論文では、正の仕事を系からエネルギーを取り出した状態、負の仕事を外部から系へ正味の仕事を加えた状態として定義している。研究チームは、各測定結果で得られた仕事を、記憶のないマルコフ的な参照系で同種のポテンシャル平行移動を行った場合の理論的な最大抽出仕事と比較した。今回の調和ポテンシャルでは、この上限は粒子の測定後の平均位置と、光ピンセットのばね定数を用いて、と表される。

論文が報告した「理論上限の最大約3倍」という数値は、この比較によって得られたものだ。ただし、これは系に存在する全エネルギーの3倍を取り出したという意味ではなく、熱力学第二法則が定める上限を超えたわけでもない。あくまで、環境の記憶を考慮しない参照系における、特定の制御操作の理論上限との比較である。

さらに、この約3倍という結果が得られたのは、4通りの測定結果のうちの場合に限られる。ほかの測定結果では、取り出せる仕事の量や環境の記憶の寄与が大きく異なっていた。論文で報告された各状態の違いを整理すると、次のようになる。

測定結果 緩和過程と記憶の影響 マルコフ系の理論上限との比較 仕事の抽出に関する特徴
顕著なエネルギーの逆流は見られず、通常の緩和に近い 仕事が負となり、抽出できない ポテンシャルの移動に伴って外部から仕事が加わる
環境の記憶によって情報の減衰が速まる 正の仕事を抽出するが、理論上限未満 初期のポテンシャルエネルギーに対して抽出量が小さい
非単調な緩和と、環境から粒子へのエネルギー逆流が顕著 最大で理論上限の約3倍 隠れた自由度に蓄えられた自由エネルギーの寄与が大きい
粒子の初期ポテンシャルエネルギーが大きく、記憶も緩和に影響する 正の仕事を抽出するが、理論上限未満 抽出仕事の絶対量は4状態の中で最大

ここで重要なのは、理論上限に対する倍率と、実際に取り出された仕事の絶対量は別の指標だという点である。規格化された仕事の比率が最も高かったのはだったが、仕事の絶対量が最大だったのはだった。したがって、「3倍の仕事を取り出した」という結果だけで、この状態が最も多くのエネルギーを回収できたと解釈するのは正しくない。

では、2回の測定を通じて粒子が閾値の右側にあり、2回目の測定直後にも比較的大きな平均変位が残っていた。そのため、粒子自身が持つポテンシャルエネルギーが大きく、ポテンシャルを移動させることで相対的に多くの仕事を取り出せる。環境の記憶も仕事の抽出に影響するが、抽出量はマルコフ的な参照系の理論上限を下回った。

これに対してでは、最初に右側にいた粒子が、2回目には左側へ移動している。この状態の平均位置から計算される理論上限は小さいにもかかわらず、実験ではその最大約3倍の仕事を取り出した。粒子の位置から計算できるポテンシャルエネルギーだけでは説明できない仕事が得られたことから、研究チームは、隠れたミセルネットワークに蓄えられていた自由エネルギーが大きく寄与したと結論づけている。

も、粒子の初期ポテンシャルエネルギーはと近い条件にある。しかし、取り出せる仕事はより大幅に少なく、最大値に達するまでの時間も短かった。これは、この状態では環境の記憶が粒子の緩和を速め、仕事として回収できるエネルギーが早く失われることと整合する。一方、では仕事が一貫して負の値を示し、エネルギーを取り出すことはできなかった。

このように、環境の記憶は必ずしも仕事の抽出を増やす方向に働くわけではない。測定結果によっては緩和を速め、利用可能なエネルギーを減らす場合もある。重要なのは、記憶の存在を知るだけでなく、その状態や時間変化に応じて適切な制御を選ぶことだ。研究チームが行った数値シミュレーションも、こうした測定結果ごとの違いを良好に再現しており、実験結果を裏づけている。

流体の記憶を利用する意義と、実用化までの課題

今回の研究の重要な成果は、従来は理論的に議論されることが多かった環境の記憶を、実験で利用可能な「熱力学的資源」として示した点にある。研究チームは、周囲のミセルネットワークの状態を直接観測することなく、微小粒子の位置を時間差で2回測定するだけで、その記憶が粒子の運動に及ぼす影響を読み取った。さらに、測定結果に応じて光ピンセットを動かすことで、環境に蓄えられた自由エネルギーの一部を仕事として取り出せることを確認した。

ただし、今回の成果を、そのまま実用的な微小発電機やナノマシンの実現につなげることはできない。実験は原理を検証するために単純化されており、位置測定は粒子が閾値の左右どちらにあるかを判定する二値測定に限られている。仕事の抽出も、調和ポテンシャルを一定速度で平行移動させるという制約のある方法で行われた。論文の著者らは、測定回数を増やしたり、位置の測定精度を高めたり、より柔軟なフィードバック制御を導入したりすることで、抽出仕事をさらに増やせる可能性を指摘している。

一方、こうした改良によって取り出せる仕事が無制限に増えるわけではない。今回の実験で利用されるエネルギーは、制御開始時点において、観測対象の粒子と隠れた環境の自由度を合わせた複合系に存在する「過剰自由エネルギー(excess free energy)」によって制約される。環境の記憶を利用することで、粒子単体の状態から計算した上限を超えることはできても、複合系全体の熱力学的な制約を超えることはできない。

さらに、実験装置全体のエネルギー収支には重要な留保がある。今回の仕事抽出量は微小粒子の熱揺らぎに関わる極めて小さなものであり、光ピンセットのレーザーを駆動する電力、粒子の位置を検出するカメラや計測装置の電力、測定結果を処理してフィードバック制御を行うコンピューターの消費電力は、仕事抽出の評価に含まれていない。これらを含めて正味のエネルギーを取り出せるかどうかは、今回の実験では検証されていない。

つまり、この研究は正味の電力を生み出す発電装置を開発したものではない。複雑な流体環境において、従来の単純化されたモデルでは利用できないと考えられていた自由エネルギーを、環境の記憶を手がかりに回収できることを実証した成果だ。環境の振る舞いを考慮した測定や制御を組み合わせることで、微小な熱機関の性能を改善できる可能性を示している。

この知見は、生体内の微小な運動系にも関係する。細胞質や血液、粘液などの環境には、高分子や細胞骨格をはじめとする複雑な構造が存在し、その力学的な応答には時間的な相関が現れることがある。こうした環境では、単純な水中とは異なり、周囲の構造が保持する過去の情報が粒子や分子の運動に影響するため、非マルコフ的な効果を無視できない場合がある。

今回の成果は、こうした複雑な環境を利用する微小機械や、情報に基づく制御技術の研究に新たな手がかりを与えるものだ。今後は、より多くの情報を取得する測定手法や、環境の記憶に合わせて動作を変える適応的なフィードバック制御によって、どこまで仕事の抽出効率を高められるかが焦点となる。同時に、測定と制御に必要なエネルギーを含めた全体の収支を評価することが、実用化の可能性を判断するうえで欠かせない。

環境は、エネルギーが失われていく先であると同時に、過去の相互作用に関する情報を保持する存在でもある。今回の研究は、その記憶を測定によって読み取り、仕事へと変換できることを実験的に示した。微小スケールの熱力学において、環境を単なる散逸の場ではなく、情報とエネルギーの交換に積極的に関わる要素として扱うことの重要性が、改めて明らかになった。