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日本が「量子中心」時代の震源地に:IBMと理研による「量子コンピュータと富岳」の歴史的統合が拓くコンピューティング新時代

Y Kobayashi

2025年6月26日

2025年6月24日、日本の科学技術界にとって歴史的な一日となった。米IBMと理化学研究所(理研)は、最新鋭の量子コンピュータ「IBM Quantum System Two」が、神戸の理化学研究所計算科学研究センター(R-CCS)で稼働を開始したと発表した。これは米国外、そしてIBMのデータセンター外に設置される初の事例である。

しかし、このニュースの本質は単なる新ハードウェアの海外初導入というマイルストーンに留まらない。真の核心は、この量子コンピュータが、世界最高峰のスーパーコンピュータ「富岳」と物理的に隣接し、高速ネットワークを介して「命令レベル」で深く連携する点にある。これは、世界で初めて本格的に稼働する「量子中心スーパーコンピューティング(Quantum-Centric Supercomputing)」の実験場が日本に誕生したことを意味する。

量子と古典、二つの異なる計算原理が手を取り合うこの歴史的融合は、これまで解けなかった複雑な科学的課題への扉を開き、コンピューティングのパラダイムそのものを根底から覆す可能性を秘めている。日本が今、その変革の最前線に立ったのだ。

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心臓部に宿る圧倒的性能:156量子ビット「Heron」プロセッサー

今回、富岳の隣に設置されたIBM Quantum System Twoの心臓部には、IBMが「史上最高の性能」と謳う156量子ビットの量子プロセッサー「Heron」が搭載されている。

このHeronプロセッサーは、いくつかの重要な指標で飛躍的な進化を遂げている。IBMによると、前世代の127量子ビット「Eagle」プロセッサーと比較して、主要な性能指標であるエラー率と計算速度がそれぞれ10倍も改善したという。

具体的には、2つの量子ビット間での演算エラー率(two-qubit error rate)は、100量子ビット規模の回路において3×10⁻³という低い値に抑えられ、最良のペアでは1×10⁻³を達成している。量子コンピュータはノイズに非常に弱く、計算結果の信頼性を左右するエラー率の低減は、実用化に向けた最大の課題の一つだ。このエラー率の大幅な改善は、より複雑で信頼性の高い計算が可能になったことを示唆する。

また、計算速度の指標であるCLOPS(Circuit Layer Operations Per Second)は、毎秒25万回に達する。これは、1秒間にどれだけ多くの量子回路の「層」を処理できるかを示す値であり、この数値が高いほど、より速く計算を終えることができる。

156量子ビットという規模、そしてこの劇的に向上した品質と速度により、Heronプロセッサーは、もはや古典的なスーパーコンピュータによる力任せのシミュレーションでは追跡不可能な、未知の領域の量子計算を実行できる能力を持つ。まさに、量子コンピューティングが新たなステージに突入したことを象徴するプロセッサーと言えるだろう。

量子と古典の「対話」:富岳とのハイブリッドが拓く新境地

今回のプロジェクトで最も注目すべきは、Heronプロセッサーを搭載した量子コンピュータと、スーパーコンピュータ「富岳」との「融合」である。同一の建物内に設置されたことで、両者を高速ネットワークで結ぶことが可能となり、互いの処理命令を低遅延でやり取りできる、いわば一心同体のハイブリッドシステムとして設計することが可能となった。

では、この「融合」は具体的に何をもたらすのだろうか?

IBMのプリンシパルリサーチサイエンティスト、Antonio Mezzacapo氏は、この物理的な近接性(Co-location)の重要性を強調する。「量子コンピュータと古典コンピュータの間で低遅延かつ広帯域の通信が必要なユースケースにとって、この設置方法は非常に重要になります。リソースの統合やワークロード管理が容易になるのです」

つまり、計算タスク全体を、それぞれのコンピュータが得意な部分に分割して効率的に処理することが可能になるのだ。

  • 量子コンピュータ(Heron)の役割: 量子力学的な重ね合わせやもつれといった現象を利用しなければ解けない、本質的に量子的な問題を担う。例えば、分子の複雑な電子状態の計算などがこれにあたる。
  • スーパーコンピュータ(富岳)の役割: 大量のデータの前処理や後処理、計算結果の分析、そして量子計算だけではカバーしきれない大規模なシミュレーションなど、古典的な計算能力が求められるタスクを担う。

この分業体制により、互いの長所を最大限に引き出し、全体としてこれまで不可能だったレベルの計算を実行できるようになる。理化学研究所 計算科学研究センターの佐藤三久氏( 量子HPC連携プラットフォーム部門 部門長)は、「私たちの使命は、科学界と産業界の両方で探求できる実用的な量子HPCハイブリッド・ワークフローを開発・実証することです。これらの2つのシステムを接続することで、このビジョンの実現に向けて重要な一歩を踏み出すことができます」と語る。

この量子と古典のシームレスな「対話」こそが、「量子中心スーパーコンピューティング」の核心であり、その世界最先端の実験場が今、日本の神戸で稼働を始めたのである。

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すでに見え始めた「量子優位性」への道筋:鉄硫化物モデリングの衝撃

このハイブリッドアプローチは、すでに具体的な科学的成果を生み出し始めている。その象徴的な例が、科学誌『Science Advances』の表紙を飾った、IBMと理研の研究チームによる鉄硫化物(Fe4S4)の電子構造モデリングに関する研究「Chemistry beyond the scale of exact diagonalization on a quantum-centric supercomputer」だ。

鉄硫化物は、生命活動におけるエネルギー代謝などに関わる重要な分子だが、その電子構造は非常に複雑で、古典コンピュータで正確にシミュレーションすることは極めて困難だった。従来、こうした複雑な分子の正確なモデリングは、ノイズの影響を完全に排除できる未来の「誤り耐性量子コンピュータ」でなければ不可能だと考えられてきた。

しかし、研究チームは「サンプルベース量子対角化(SQD)」と呼ばれる新しい手法を開発。これを使い、現在のノイズの多い中規模量子デバイスと古典コンピュータを連携させることで、この難問の解決に成功したのだ。これは、今日の量子コンピュータでも、富岳のような強力な古典インフラと緊密に連携させることで、科学的に価値のある「発見」を生み出せることを実証した画期的な成果である。

IBMは「2026年までに量子優位性(Quantum Advantage)を実証する」という目標を掲げているが、この鉄硫化物の事例は、その目標が単なる夢物語ではなく、現実的な射程圏内にあることを力強く示している。

国家戦略としての量子技術:日本の強力な後押し

この歴史的なプロジェクトは、IBMと理研という二つの組織だけの取り組みではない。その背後には、日本政府の強力な支援がある。

本プロジェクトは、経済産業省所管の新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)が進める「ポスト5G情報通信システム基盤強化研究開発事業」の一環として位置づけられている。これは、量子技術を次世代の国家基盤を支える重要技術と捉え、国として研究開発を加速させようという明確な戦略的意図の表れだ。

世界では米国、中国、欧州などが巨額の投資を行い、量子技術の覇権をめぐる競争が激化している。その中で日本が独自の強みを発揮するには、富岳という世界に誇る計算インフラと、IBMの最先端量子技術を組み合わせるという、今回のハイブリッド戦略は極めて有効な一手と言える。

この取り組みは、日本の科学技術政策が、基礎研究から実用化、そして国際連携までを見据えた、長期的かつ戦略的な視点に基づいていることを示している。

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コンピューティングの未来を占う試金石

IBM Quantum System Twoと富岳の融合は、単に速いコンピュータが二つ並んだ以上の意味を持つ。これは、コンピューティングの未来像を具体的に描き出す、壮大な社会実験の始まりだ。

IBM QuantumのヴァイスプレジデントであるJay Gambetta氏は、「コンピューティングの未来は量子を中心としたものであり、理研とともにこのビジョンを実現するための大きな一歩を踏み出しています」と語る。

材料科学、創薬、金融モデリング、人工知能――。量子と古典のハイブリッドコンピューティングが解き放つ可能性は、あらゆる産業や科学分野に及ぶだろう。もちろん、実用的なアプリケーションが広く普及するまでには、アルゴリズムの開発、ソフトウェアの整備、そして何より専門人材の育成といった、乗り越えるべき課題も多い。

しかし、その未来に向けた第一歩は、間違いなくここ日本の地で力強く踏み出された。神戸から始まるこの挑戦が、世界のコンピューティングの歴史にどのような一章を刻むのか、今から楽しみだ。


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