国際海運は世界の温室効果ガス排出量の約3%を占め、電化が難しい「脱炭素困難セクター」の代表格だ。液化水素のような超低温貯蔵を必要とせず、燃焼時にCO2を排出しないアンモニアは、その突破口として長年期待されながら「商業スケールへの展開は概念段階」にとどまってきた。
2026年4月9日、韓国・蔚山のHD Hyundai Heavy Industries(HHI)造船所で命名式が執り行われた。世界初の商業用アンモニア燃料中型ガス運搬船2隻が正式に命名され、海運脱炭素化は概念証明から商業運用へと移行したのだ。ただこの記事ではそれだけではなく、CO2フリーが即ちクリーンを意味しないという、解決を後回しにされてきた問題についても触れておきたい。
−33℃で積めて1.7倍の密度——アンモニアの物性が海運を動かす
炭素を含まない分子構造が、アンモニアをカーボンフリー燃料に変える。燃焼してもCO2は生成されず、化学構造上そうなりようがない。同じ代替燃料でも液化水素(LH₂)は−253℃という極低温での貯蔵が必要だが、アンモニアは約8barの加圧タンクか−33℃の低温タンクで保管できる。現在の液化天然ガス(LNG)インフラと温度帯が近く、既存設備を流用しやすい。
貯蔵密度でも優位性がある。液化水素と同体積のタンクに貯蔵した場合、アンモニアは約1.7倍のエネルギー密度を持つ。積載効率に直結するこの差は、長距離航行の経済性を大きく左右する。農業用肥料として年間1億8,000万トン超の生産量があり、製造・流通インフラを転用できる商業的な利点も、他の代替燃料にはない強みといえる。
IEAのネットゼロシナリオが示す試算では、アンモニアは2030年に海運燃料需要の8%、2050年には46%を占める見通しだ。この目標値に実体を与えるには推進技術の商業実証が先決であり、HHIはその最初のケースを今回完成させた。
2隻の中型ガス運搬船が備える技術仕様

命名された2隻はAntwerpenとArlonで、いずれもベルギーの都市名を冠する。発注者はベルギーの海運企業Exmarの子会社Exmar LPG Franceで、2023〜2024年に発注した計4隻の1・2番船にあたる。2隻は2026年5月・7月末の納船を予定している。
船体規模は全長190m×幅30.4m×深さ18.8m、容積は46,000立方メートル級の中型ガス運搬船(MGC)だ。HHI独自技術の3基貨物タンクを搭載し、アンモニアとLPG(液化石油ガス)の両方の輸送に対応する。デュアルフュエル(DF)エンジンはアンモニアと従来燃料を切り替えて運転でき、アンモニア供給インフラが整っていない寄港地での運用継続性を確保している。
安全面では2つのシステムが核心を担う。アンモニアパージ回収ユニットは、配管や弁の交換作業時に残留ガスを安全に除去・回収する。リアルタイムガス検知システムは船内の微量アンモニア漏れを常時監視し、乗組員への暴露リスクを管理する。アンモニアは人体に対して刺激性・毒性を持つため、この安全機構は設計の根幹にある。HHIの海軍・特殊船舶事業部COOであるJoo Won-hoは命名式でこう述べた。「世界初のアンモニア推進船を建造できたことは非常に意義深い。高度な技術力を要するプロジェクトだった」
HHIが積み上げてきた「世界初」の系譜
2016年のメタノール石化製品船、2023年のメタノールコンテナ船に続き、今回で3度目の「世界初」となる。代替燃料船の商業化において、HHIは技術的な先行リスクを引き受けることで実績を積み重ねてきた。
現時点でHHIはExmarと、原油・ガス取引大手のTrafiguraから計8隻のアンモニア推進船を受注している。造船の受注から納船まで2〜3年かかる業界特性を考えると、この受注残は2028〜2029年にかけての納船ラッシュを予告するものだ。DNVの調査では2025年8月時点で39隻のアンモニア対応船が発注中であり、HHIの8隻はその約20%を占める。エンジン側ではWärtsiläが「Wärtsilä 25 Ammonia」を2026年Q1に受注し、MAN Energy Solutionsもアンモニア対応エンジンの製品化を進めている。
メタノール船で蓄積したDFエンジン統合ノウハウがアンモニア船の開発を加速させており、HHIの戦略は一貫している。代替燃料の普及初期に「世界初」を取ることで技術実績を積み、後続の大量受注で収益化するモデルだ。
CO2フリーと「クリーン」は別物だ
アンモニアを推進燃料として使う際、CO2は出ない。ただしこれが成立するのはグリーンアンモニア(再生可能エネルギー由来の電力で製造)が前提であり、現状の流通量の大半は依然として化石燃料由来のグレーアンモニアだ。
それでも燃焼排出物の問題は残る。窒素酸化物(NOx)、亜酸化窒素(N₂O)、そして燃焼しきれなかったアンモニア自体(未燃アンモニアスリップ)が排出される。N₂OはCO2の約300倍の温室効果を持ち、NOxは大気汚染の主要因となる。
MITの研究チームがEnvironmental Research Lettersに発表した分析は、この問題を数値で示した。仮に世界の海運船隊全体が現行のMARPOL規制を改定せずに2050年までにアンモニア推進へ段階的に移行した場合の試算として、大気汚染による年間最大60〜68万人の早期死亡増加リスクが生じるとされる。これは規制の空白が続いた場合の上限値であり、クリーンエンジン技術と強化規制を組み合わせれば、逆に年間約6.6万人の早期死亡を削減できるシナリオも存在する。MITのポスドク研究員Anthony Wong氏はこう指摘する。「アンモニアを”クリーン”な燃料と呼ぶのは少し言いすぎだ。カーボンフリーだからといって、クリーンで公衆衛生に良いとは限らない」
IMOの既存の大気汚染規制(MARPOL Annex VI)はNOx排出を対象としているが、アンモニアスリップやN₂Oを明示的にカバーしていない。MIT教授のNoelle Selin氏はこう述べる。「アンモニアが気候と大気質の両方に恩恵をもたらす可能性はある。ただし、潜在的な影響の全範囲に対処するよう規制が設計されている場合に限る」。燃料コストも障壁で、グリーンアンモニアは現状、重油(HFO)比で2〜4倍程度の価格帯とされる。DNVのプリンシパルコンサルタントLinda Sigrid Hammer氏は「船の準備が整っても、最大の課題は燃料コストだ」と述べている。
AntwerpenとArlonの就航は、技術的な実証として重要な意味を持つ。アンモニアが海運脱炭素化の主力燃料となるには、IMOがMARPOL Annex VIを改定してアンモニアスリップとN₂O排出を規制の対象に明示的に含めることが最初の関門となる。IMOは2025〜2026年にかけてその枠組み議論を進めており、結論が出るまでは「CO2ゼロの燃料」という評価は条件付きのままだ。
Sources
- Korea Herald: HD Hyundai Heavy builds world’s first ammonia ship
- FuelCellsWorks: HD Hyundai Heavy Industries Builds World’s First Ammonia-Powered Vessel
- Interesting Engineering: Ammonia-powered vessel signals major shift in clean shipping tech
- MIT News: Study finds health risks in switching ships from diesel to ammonia fuel
- DNV: Ammonia as a marine fuel: Prospects and challenges