ArF液浸リソグラフィスキャナ(ArF immersion lithography scanner)という装置を1社からしか買えないという状況が、半導体チップメーカーの調達担当者にとって30年近く続いてきた。ASMLだ。入手待ち、価格交渉力の欠如、輸出管理リスクの集中——これらの懸念は、AI半導体需要が爆発的に拡大した2024年以降、切実さを増している。その構造がいよいよ変わるかもしれない局面を、ニコンの新社長・大村泰弘氏が2026年5月29日のNikkei Asiaへの取材で明言した。ASMLより低価格でArF液浸スキャナを提供できると述べ、複数の大手チップメーカーとの商談が「購入注文に近い段階」まで進んでいることを公表した。宣言を支える根拠が、ニコンの製造構造にある。

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90%超のシェアはどう積み上がったか:ASML一強の構図

ASMLがリソグラフィ市場でこれほどの支配力を持つに至ったのは、EUV(extreme ultraviolet、極端紫外線)技術への集中投資が決定的だった。2010年代に世界で唯一EUV装置の量産を実現し、7nm以下の先端プロセスに不可欠な装置メーカーとしての地位を確立した。2025年末時点でのASML受注残高は€38.8 billionに達し、TSMC、SamsungIntelのいずれも年間数十台規模でASML製品に依存している。

ArF液浸スキャナ(ArF液浸方式のDUV装置)の市場でも、ASMLは90%超のシェアを握る。2025年の出荷実績はEUV 48台に加え、液浸DUV 131台だった。このシェアは、ニコンが2017年以降に最先端プロセス向け競争から事実上撤退した後に積み上がった数字だ。FY2024(2024年3月期)のニコンArF液浸出荷台数はわずか11台で、続くFY2025(2025年3月期)の第1〜3四半期では出荷がゼロとなった。競合不在の市場で、ASMLは価格設定の主導権を握り続けてきた。

垂直統合が作るコスト構造:なぜ大村氏は「低価格でも利益が出る」と言えるのか

「部品の多くを自社製造しているためコスト競争で優位がある」——大村氏のこの発言が指すのは、光学系を中心とした主要部品の高い内製化率だ。半導体製造装置は精密光学部品、ステージ機構、制御システムなど多数のサブシステムで構成されるが、ニコンはカメラ・光学機器メーカーとしての技術蓄積からこの内製化率を高く維持してきた。それが「低価格でも利益は十分に得られる」という主張の土台になっている。

外部サプライヤーへの依存度が低い製造構造は、コスト面で2つの優位を生む。1つは外注マージンの排除だ。高精度の光学部品を外部から調達する場合、部品メーカーの利益分がそのまま製品原価に乗る。内製化すればその分が圧縮可能になる。

もう1つは部品調達の需給リスクを社内でコントロールできる点だ。特定サプライヤーに依存した場合の単価高騰や納期遅延が発生しにくくなり、製品価格の安定性も高まる。

このコスト優位は価格競争力に直結する。ASML製ArF液浸スキャナの平均販売価格は2024年Q4時点で€74.8 million(約8,250万ドル)に達している。チップメーカーが年間10〜20台規模で調達する前提で考えると、競争的な価格帯を設定できる第2サプライヤーの存在が持つ意味は購買交渉の構造そのものに関わる。垂直統合モデルは品質を落とさずに競争的な価格帯を維持できる事業構造を持っており、ニコンが具体的な価格設定を公表していないため正確な比較はできないが、その余地はこの内製化率の高さに由来している。

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EUVではなくDUVに特化する戦略的な理由

ニコンは2008年にEUV装置の開発から撤退しており、この領域にASMLが唯一のサプライヤーとして君臨する状況は変わらない。ニコンが再参入を宣言したのはDUV(deep ultraviolet、深紫外線)のArF液浸領域のみだ。これを「撤退の残滓」と見るのは間違いで、むしろ利益率と市場規模を計算した選択だ。

EUV装置は低NA(TWINSCAN NXE)タイプで1台$1.83〜2.2億ドル(約270〜320億円)、高NA EUV(TWINSCAN EXE)では$3.8億ドル(約560億円)規模に達し、研究開発費と製造難度が極めて高い。仮に再参入を試みても、ASML比で10年以上の技術的な遅れを埋めるコストが膨大になる。対してArF液浸スキャナは1台あたり約€74.8 millionと導入ハードルが低く、需要の厚みも大きい。最先端チップ製造では最先端層をEUVで形成するが、中間配線層や量産拡大フェーズではDUVツールが大量に投入される構造になっている。AI半導体の製造スケールが急拡大した今、EUVで作るチップを量産するためにDUVツールの需要も連動して跳ね上がっている。ニコンが狙っているのは、この連動需要が生む「裾野の広い市場」だ。EUVの独占を崩せなくても、DUVの需要が膨らむほどにニコンの市場機会は広がる構造になっている。

AI需要がDUVツール市場を引き締め、デュアルソーシング戦略が加速

ChatGPTの登場以降、NVIDIAのGPUやMicrosoftのAIアクセラレータ向けの先端チップ需要が急速に拡大した。TSMC、Samsung、Intelといった大手ファウンドリはラインの増強を急いでいる。ラインの増強には、DUVツールの大量調達が避けられない。ただしASML1社しか供給しておらず、チップメーカーの多くは入手待ちの状態が続いている。

単一サプライヤーへの依存は調達リスクそのものだが、米中摩擦に伴う輸出管理の複雑化が加わった現在、その意識はより鮮明になっている。ASML製品は米国の輸出規制対象であり、中国向け出荷制限が強化されるなど地政学的な要因が調達計画の不確実性を高めている。「もう1社から調達できる状態を作りたい」というファブ側の動機は、価格だけの問題ではなくなっている。AI需要が牽引するDUV装置市場は2031年に$23.7 billion規模に達するとの予測(Valuates Reports)もあり、量産領域での競争が本格化するタイミングはニコンの再参入計画と重なる。

新型ArF液浸プラットフォームはFY2028(2028年4月〜2029年3月)の市場投入を目標に開発が進んでいる。2027年末前にプロトタイプを顧客に納入する計画で、既存のASML製ツールとの互換性を持たせる設計とされている。互換性の確保は顧客がラインの一部をニコン製に切り替える際の移行コストを抑える重要な仕様で、デュアルソーシング戦略を取るファブにとって導入判断のハードルを下げる効果がある。

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FY2025損失860億円から始まるカムバック:ニコンの財務と復活条件

FY2025(2025年3月期)にニコンは約860億円(約5.7億ドル)の純損失を計上した。精密機器セグメントの売上は約1,850億円と前年比約8.4%減少し、損失要因にはIntel向け需要の低迷に加え、円高影響と関税圧力、272億円規模の一時費用が重なった。FY2025第1〜3四半期のArF出荷がゼロになった背景には、単なる「顧客の業績悪化」を超えた構造的な転換がある。Intelはニコン最大のArF顧客で、かつてはニコンのArF受注量の大部分を占めていたとされる。先端プロセスがEUVへ移行するにつれてIntelの最先端ノード向け調達がASMLに集中し、EUVを製造できないニコンへの発注理由が薄れた。そこにIntel自身の製造プロセス遅延と設備投資の圧縮が加わり、ニコン向け受注は事実上蒸発した。

大村氏自身も「Intelへの偏重という既存顧客基盤を超えた信頼獲得が課題」と認識している。復活の条件は顧客基盤の再構築そのものであり、現在商談中とされる米国・アジアのファブが正式発注に転じるかどうかが最初の試金石となる。手元にある武器は現行フラッグシップのNSR-S636E(2024年1月販売開始)と、2025年9月発表の最新ArFドライスキャナNSR-S333F(スループット300枚/時超、2026年下半期から初期出荷)だ。これらが次世代プラットフォームへの橋渡し製品として機能し、ファブとの信頼関係を再構築できるかどうかが問われる。ニコンの「2030ビジョン」では半導体装置事業が主要成長ドライバーと位置づけられており、今回の再参入宣言は事業戦略の優先軸を明確に示している。

30年ぶりの競争が生む構造変化

ニコンは世界で唯一のArF液浸スキャナ競合として、AI需要主導で逼迫するDUV装置市場に楔を打ち込もうとしている。チップメーカーが得るのは価格交渉力にとどまらない。ASML1社に集中していた供給リスクが分散され、輸出管理の影響を受ける地政学的リスクも一定程度ヘッジできる体制が整う。半導体製造装置の調達において30年ぶりに競争原理が働く市場が生まれるかどうかは、今後2年で明らかになる。

ニコンの「宣言」が戦略的な現実に変わるかどうかを最終的に測るのは4つの指標だ。商談中のファブが実際に正式発注するかどうか(企業名の公表も含む)、2027年末のプロトタイプ納入が計画通り実行されるかどうか、2028年度の量産ラインが立ち上がった際の実機スループットと歩留まり実績が公開されるかどうか、そしてASML側が競争環境の変化に対してどのような価格・サービス戦略で対応するかだ。これら4つの指標が数値として出そろう2027年末〜2028年末が、ニコンのカムバックの実態が判明する最初の分岐点となる。