バッテリー電気自動車(BEV)が徐々に市場を広げている現代において、ドイツの巨人BMW Groupが次なる一手を明確に示した。同社は2025年9月、長年のパートナーであるトヨタ自動車との共同開発による第3世代の水素燃料電池(FC)システムを搭載した車両を、2028年から量産開始すると発表したのだ。これは、主要プレミアム自動車メーカーとして、水素という選択肢に本格的に舵を切ることを意味する。
BEVへのシフトが不可避とされる潮流のなか、なぜBMWは水素に賭けるのか。これは単純な多角化路線の一環ではなく、その背後にはエネルギー安全保障、インフラ、そして未来のモビリティに関するBMWの壮大なビジョンと、周到な戦略がある。本稿では、この歴史的な発表の技術的詳細から、欧州を横断する生産ネットワーク、そして最大の課題であるインフラ問題に対するBMWの答えまで見ていきたい。
BEVの次か、補完か? BMWが描く「技術オープン」という未来図
BMWの戦略を理解する上で最も重要なキーワードが「技術オープン(technology-open)」アプローチである。これは、単一の技術に未来を委ねるのではなく、顧客の多様なニーズや各地域のエネルギー事情に応じて、最適なゼロエミッション技術を提供するという思想だ。
BMWで水素燃料電池車部門を率いるMichael Rath氏は、バッテリーEV(BEV)と水素燃料電池車(FCEV)は競合するのではなく、相互に補完し合う関係にあると強調する。 具体的には、以下のような特性の違いが想定されている。
- BEV: 日常的な移動、都市部での利用、充電インフラが整備された地域に最適。
- FCEV: 長距離走行、大型・重量級の車両(特にSUV)、そして牽引能力が求められる用途に強みを発揮する。
急速充電技術が進化したとはいえ、大容量バッテリーを搭載した大型BEVの充電には依然として時間がかかり、特にトレーラーなどを牽引する際の航続距離の低下は顕著だ。FCEVは、ガソリン車と同様に数分で水素を充填でき、こうしたBEVの弱点をカバーできる。BMWは、プレミアムブランドとして顧客に「妥協のないゼロエミッション走行」を提供するため、FCEVが不可欠なピースだと考えているのだ。

2028年という目標時期も示唆に富む。これは、BMWが次世代BEVの基盤として開発を進める「Neue Klasse(ノイエ・クラッセ)」アーキテクチャが市場に本格展開される時期と重なる。Rath氏は、このNeue Klasseアーキテクチャが、巨大なバッテリーパックの代わりに水素タンクと燃料電池を搭載できるよう設計されている可能性を示唆している。 このことは、BMWが開発の初期段階からBEVとFCEVの両方を視野に入れた共通プラットフォーム戦略を描いていることを物語っている。
心臓部は「トヨタとの共同開発」- 劇的進化を遂げた第3世代燃料電池

今回の発表の核心は、トヨタとの協業によって実現した第3世代の燃料電池システムだ。両社の協力関係は10年以上に及び、その深化の過程が技術の進化に直結している。
- 第1世代 (2014年): BMW 535iAのテスト車両に搭載。システムは全面的にトヨタから供給された。
- 第2世代 (2023年): 限定生産のパイロットフリート「BMW iX5 Hydrogen」に搭載。燃料電池システム全体の開発はBMWが行い、中核部品である個々の燃料電池セルはトヨタから供給を受けた。
- 第3世代 (2028年予定): BMWとトヨタが中核技術を共同で開発。両社の知見を完全に融合させ、次世代の標準を築く新たなフェーズに突入した。
この最新世代のシステムは、目覚ましい技術的飛躍を遂げている。
25%小型化と高効率化がもたらすインパクト

最大の進化点は、システム全体の約25%という大幅な小型化と、それに伴う出力密度の向上だ。 これは単なる省スペース化以上の意味を持つ。システムがコンパクトになることで、車両設計の自由度が飛躍的に高まる。セダンからSUVまで多様なモデルの床下にシームレスに統合でき、居住空間や荷室を犠牲にすることなくパワートレインを搭載可能になるのだ。
さらに、効率も大幅に向上している。 個々のコンポーネントの改良と、トヨタと共同開発した駆動技術、そして運転状況を最適化する制御ストラテジーによって、エネルギー消費を抑えつつ、より長い航続距離と高い出力を両立させる。iX5 Hydrogenが6kgの水素で約504km(313マイル、WLTPモード)の航続距離を達成していることから、次世代モデルはこれを大きく上回ることが期待される。
10年越しの同盟が生んだ「シナジー」
この共同開発は、乗用車だけでなく商用車への応用も視野に入れている点が極めて戦略的だ。 膨大な開発コストを両社で分担しつつ、基盤技術を共有することで規模の経済を追求する。そして、その成果をそれぞれのブランドの乗用車や、今後需要の拡大が見込まれるトラックなどの商用FCEVに展開することで、水素技術全体の普及を加速させる狙いがある。これは、自動車業界の未来を左右する覇権争いにおいて、日独の巨人が強固なアライアンスを組んで臨むことを示す力強い宣言でもある。
欧州を横断する生産ネットワーク:BMWの本気度を示す製造拠点
BMWの水素戦略が単なる研究開発レベルのものではないことは、その具体的な生産計画からも明らかだ。同社は、ドイツとオーストリアにまたがる、高度に連携した生産ネットワークを構築し、2028年の量産開始に向けて着々と準備を進めている。
- ミュンヘン(ドイツ) – 司令塔: BMWの水素技術コンピテンスセンターが置かれ、第3世代燃料電池システムのプロトタイプ開発と検証が行われている。ここでは、システムの工業化、品質保証、そして将来的な大規模生産への拡張性(スケーラビリティ)を見据えた製造プロセスの確立が進められている。
- シュタイア(オーストリア) – 量産の心臓部: 2028年から、完成した燃料電池システムのシリーズ生産を担当する。ここは長年BMWのエンジン生産を支えてきた牙城であり、その高度な製造ノウハウを次世代の水素パワートレインに注入する。伝統的な内燃機関と最新の電動モーター、そして未来の燃料電池を同じ工場で生産することは、BMWの「技術オープン」戦略を象徴している。
- ランツフート(ドイツ) – 重要コンポーネントの供給基地: 燃料電池スタックを保護する特殊なハウジングや圧力プレートなど、水素システムに不可欠な重要コンポーネントを製造する。
新開発「BMW Energy Master」とは何か?
特に注目すべきは、ランツフート工場で生産される新開発の電力制御ユニット「BMW Energy Master」だ。 FCEVは、燃料電池が発電した電力でモーターを駆動するだけでなく、加速時などに備えて一時的に電力を蓄える小型の高性能バッテリーも搭載している。BMW Energy Masterは、燃料電池、高電圧バッテリー、そして電気モーター間の電力フローを400Vから800Vの範囲でインテリジェントに制御する、FCEVの「頭脳」とも言うべき部品だ。この制御ユニットのプロトタイプは、Neue Klasse向け部品も手掛けるディンゴルフィン工場で開発されており、ここでもBEVとFCEVの技術的なシナジーが生まれている。
最大の壁「水素インフラ」- BMWは勝算をどう見るか?
どんなに優れた車両を開発しても、燃料を補給できなければ普及はおぼつかない。水素FCEVにとって、インフラの整備は乗り越えなければならない最大の壁であり、アキレス腱でもある。
カリフォルニアの「苦い教訓」
米国で唯一、過去10年間にわたり水素ステーションが商業展開されてきたカリフォルニア州の経験は、その難しさを物語っている。州は2020年までに100カ所のステーション設置を約束したが実現せず、既存ステーションの信頼性の問題や、最近では一部が閉鎖に追い込まれるなど、インフラ網は脆弱なままだ。 結果として、トヨタ「ミライ」の販売台数は2015年以降、多額のインセンティブに支えられながらも累計15,000台程度に留まっている。
BMWは、こうした現実を直視しており、米国市場への導入については「各地域の水素インフラの発展状況を注意深く見守る」と慎重な姿勢を崩していない。 現時点では、日本、韓国、中国、そしてEUが先行市場となる可能性が高い。
商用車が道を拓く?BMWとトヨタのインフラ戦略
では、BMWとトヨタはこのインフラ問題をどう乗り越えようとしているのか。その答えの鍵を握るのが「大型商用車」だ。両社は、長距離を走行する大型トラック(セミトレーラーなど)のゼロエミッション化には水素が最適解だと考えている。港湾施設や物流倉庫などを結ぶ基幹ルートに大型商用車向けの水素ステーションが整備されれば、それが乗用車FCEVにとっても利用可能なインフラの基盤となる、というシナリオだ。
この戦略は、需要と供給の「鶏と卵」問題を解決する現実的なアプローチと言える。少数の乗用車のために高価なステーションを建設するのではなく、稼働率の高い商用車フリートを足掛かりにインフラを先行整備し、徐々に乗用車へとネットワークを広げていく。BMWが乗用車と商用車の両方でシナジーを生み出す共同開発を進めているのは、このインフラ戦略と密接に連携しているからに他ならない。
待たれる「グリーン水素」の普及
もう一つの重要な論点が、水素の製造方法だ。現在、世界の水素の大半は天然ガスを改質して作られる「グレー水素」であり、その過程でCO2が排出される。FCEVが真に環境に優しいモビリティとなるためには、太陽光や風力など再生可能エネルギー由来の電力で水を電気分解して作る「グリーン水素」の普及が不可欠だ。
BMWもこの点を認識しており、ポルトガルのような日照に恵まれた地域で余剰の再生可能エネルギーを使ってグリーン水素を製造し、それをエネルギーとしてドイツのような国に「輸出」する、といった未来のエネルギーエコシステムを構想している。 FCEVの普及は、自動車のゼロエミッション化だけでなく、国や地域を越えたクリーンエネルギー網の構築にも貢献する可能性を秘めている。
2028年、我々は何を目撃するのか?
最初のモデルは「X5」か? Neue Klasse SUVへの搭載シナリオ
では、2028年に登場するBMW初の量産FCEVは、どのようなモデルになるのだろうか。最も有力視されているのは、同社の主力SUVである「X5」の次世代モデルだ。その根拠はいくつかある。まず、iX5 Hydrogenで既に実証実験を重ねており、技術的な親和性が高いこと。次に、SUVという車格は水素タンクの搭載スペースを確保しやすく、また、FCEVが得意とする長距離走行や牽引能力といった特性が、まさにSUVユーザーの求める価値と合致するためだ。 Neue Klasseアーキテクチャをベースとした新型SUVに、FCEVがパワートレインの選択肢の一つとして加わる形で登場する可能性は極めて高いだろう。
自動車業界のパワーバランスを変える一手となるか
BMWのこの決断は、BEV一辺倒とも見える欧州メーカーの電動化戦略に一石を投じるものだ。かつてはMercedes-Benzも乗用車FCEVの開発に積極的だったが、現在は商用車に注力する方針に転換している。その中でBMWがプレミアムブランドとしてFCEVの量産に踏み切ることは、競合他社に戦略の見直しを迫る可能性がある。もしBMWの水素戦略が成功すれば、自動車業界の電動化はBEVとFCEVが共存する、より多様で強靭な未来へと進化していくかもしれない。
これは「賭け」か、それとも「必然」か
BMWの2028年水素FCEV量産計画は、不確実な未来に対する壮大な「賭け」のように見えるかもしれない。しかしその内実を深く見れば、それは技術的優位性、強固なパートナーシップ、そして現実的なインフラ戦略に裏打ちされた「必然」への布石であるとも言える。
BMWは、すべての答えをBEVという一つのバスケットに入れることを良しとしない。エネルギーの未来がどう転ぶか誰にも完全には予測できないからこそ、複数の技術的選択肢を持ち、あらゆるシナリオに対応できる柔軟性を維持する。2028年は、単に新しいモデルが登場する年ではない。それは、BMWが示す未来のモビリティに対するもう一つの答えが、我々の目の前で現実となり始める、始まりの年となるだろう。
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