火星は地質活動を終えた惑星なのか、それとも地下深くでは現在もマグマが活動しているのか。この長年の疑問に、大気観測から新たな手がかりが得られた。欧州宇宙機関(ESA)とロスコスモスの火星探査機ExoMars Trace Gas Orbiter(TGO)の観測データを分析した研究チームが、火星北半球の巨大火山アルバ山(Alba Mons)付近の上空で、塩化水素(HCl)が局所的に存在することを突き止めた。研究成果は2026年11月4日付の学術誌『Science Advances』に掲載された(DOI: 10.1126/sciadv.aeb9422)。

ただし、今回確認されたのは大気中の塩化水素であり、溶岩の流出や高温の噴気孔が見つかったわけではない。論文の筆頭著者であるAlexander Trokhimovskiyらも、この発見を現在の火山活動の確証とは位置づけていない。大気中のガスの分布と周辺の地質構造を合わせて考えると、火成活動に由来する可能性があるという、有力な手がかりとして報告している。

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火星上空で捉えた微量の塩化水素

今回の発見に使われたのは、TGOに搭載された大気化学観測装置ACS(Atmospheric Chemistry Suite)の中赤外チャンネル(MIR)だ。ACS MIRは波長2.2〜4.4 μmの赤外線を観測し、太陽光が火星の大気を通過する際に生じる吸収スペクトルから、微量ガスの種類や濃度を調べる。

観測には、探査機から見て太陽が火星の地平線に沈む、あるいは昇る瞬間を利用する「太陽掩蔽法」(solar occultation)が使われた。太陽光が大気を長い距離にわたって通過するため、微量なガスによる光の吸収も検出しやすい。研究チームは塩化水素に特有の吸収線が現れる波数2894〜3239 cm⁻¹の領域を詳しく調べ、濃度と高度方向の分布を求めた。

観測対象となったのは、火星年(Martian Year:MY)の第35年(MY35)と第37年(MY37)における、太陽黄経(Ls)100°〜120°の期間だ。火星の1年は地球の約687日に相当し、この時期は北半球の夏で、火星が太陽から遠ざかる「遠日点期」に当たる。研究チームが分析した北半球での計78回の掩蔽観測のうち、塩化水素を明確に検出したのは8回だった。内訳はMY35の2回とMY37の6回で、前者は当初、観測結果だけでは結論を出せなかったデータである。

火星北半球の遠日点期における塩化水素の観測結果横棒グラフ。カテゴリ 2 件、系列: 観測数(単位: 件)HClを有意に検出HClを有意に検出HClを有意に検出 — 観測数: 8件8検出上限0.2 ppbv以下検出上限0.2 ppbv…検出上限0.2 ppbv以下 — 観測数: 70件70単位: 件
データを表で見る
観測数 (件)
HClを有意に検出8
検出上限0.2 ppbv以下70
火星北半球の遠日点期における塩化水素の観測結果火星年MY35およびMY37、太陽黄経Ls=100°〜120°における北半球の全78回の太陽掩蔽観測出典: Science Advances (DOI: 10.1126/sciadv.aeb9422)

注目すべきは、検出された場所が西経96°〜117°の狭い範囲に集中していたことだ。それ以外の場所では、アルバ山の近傍であっても塩化水素は検出されず、観測から得られた上限値は0.2 ppbv(体積比で10億分の0.2)以下だった。一方、検出地点では最大1.5 ppbvに達している。さらに、塩化水素は観測可能な最も低い高度付近に集中し、高度が10 km上がる間に濃度が急激に低下するという特徴が見られた。

もっとも、太陽掩蔽法には観測上の制約がある。大気中の砂塵や氷の微粒子(エアロゾル)が太陽光を遮るため、通常は地表付近まで観測できず、観測可能な最低高度は数kmから数十kmに制限される。今回は局所的にエアロゾルが少なかったため、例外的に低高度まで測定できたが、得られた高度別の濃度分布にも解析上の不確実性がある。したがって、塩化水素が地表のどこから放出されたのかを直接特定できたわけではない。

従来の砂嵐による塩化水素生成とは異なる特徴

火星大気で塩化水素が見つかったのは今回が初めてではない。2021年以降、TGOの観測によってその存在が報告されてきた。しかし、これまで知られていた塩化水素の生成過程と、今回アルバ山周辺で観測された現象には大きな違いがある。

従来、塩化水素が観測されてきたのは、主に火星が太陽に近づく近日点期だ。南半球の夏に当たるこの時期には大規模な砂嵐が発生し、砂塵や水蒸気が高高度まで運ばれる。塩化物を含む砂塵と水蒸気が静電気や光化学反応などを介して反応し、塩化水素が広い範囲で生成されると考えられている。

一方、今回の観測が行われた遠日点期は、近日点期より平均約30 K(温度差として約30℃)も寒冷だ。大気中の水蒸気は低高度にとどまり、浮遊する砂塵も少ない。砂嵐に伴う広域的な生成過程が活発になる条件とは大きく異なる。

比較項目 従来の近日点期の塩化水素循環 アルバ山周辺の遠日点期の異常 解釈上の注意点
観測時期 南半球の夏。砂嵐が頻発し、比較的温暖 北半球の夏。近日点期より平均約30 K寒冷 季節的な氷の変化が検出条件に影響した可能性
地理的分布 惑星規模の広い範囲 西経96°〜117°に局在 観測範囲の偏りによる見落としの可能性
水蒸気と砂塵 水蒸気や砂塵が高高度まで輸送される 水蒸気は低高度に集中し、砂塵は少ない 既存モデルでは急激な濃度勾配を再現できない
想定される生成・供給源 砂塵中の塩化物と水蒸気の反応 地下マグマの脱ガスと断裂系を通じた浸出 火山起源は仮説であり、共存ガスは未検出
推定供給量 火星全体で約180 kg/s 局所的な浸出量は3 kg/s未満と試算 いずれもモデルに依存し、直接測定値ではない

研究チームが検討した既存の大気化学モデルでは、今回のように特定の地域だけに塩化水素が集中し、低高度で急激な濃度勾配を形成する現象を再現できなかった。モデル上、遠日点期の塩化水素は北極域の広い範囲に薄く分布するか、アルバ山から離れた水蒸気の輸送経路に沿って現れると予測される。観測された局所的な濃度上昇を説明するには、別の供給源を考える必要がある。

この局在性を考えるうえで重要なのが、塩化水素の大気中での寿命だ。火星大気に存在する水氷エアロゾルは塩化水素を吸着・除去する働きを持ち、数ppbv程度の塩化水素の実効寿命は、氷粒子が存在する環境では数ソル(火星日)にも満たないと考えられている。1ソルは約24時間39分であり、塩化水素が短時間で除去されれば、局所的な供給源から放出されたガスが惑星全体に拡散する前に失われる可能性がある。

ただし、塩化水素の濃度差が供給源の違いだけで生じたとは限らない。季節的に氷粒子が減少し、塩化水素が除去されにくくなったために検出しやすくなった可能性もある。しかし、研究チームが周辺大気の状態を調べたところ、アルバ山周辺だけで特異な昇温や氷の完全な消失が起きたことを示す証拠は見つからなかった。少なくとも、既知の大気化学過程だけで今回の局所的な分布を説明するのは難しい。

なお、従来の近日点期に火星大気全体へ供給される塩化水素の量は、約180 kg/sと推定されている。今回想定される局所的な浸出量の上限とは2桁近い差があり、両者が異なる仕組みで生じている可能性を示している。ただし、この差だけで広域的な塩化水素の生成に火成活動が一切関与していないと断定できるわけではない。

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アルバ山周辺の割れ目地形が示す地下活動の可能性

大気中の化学反応だけでは説明が難しいとなれば、次に注目されるのは地表の地質構造だ。研究チームは、塩化水素が検出された領域の直下にどのような地形があるのかを調べた。

高解像度撮像装置HiRISE(High Resolution Imaging Science Experiment)とCaSSIS(Colour and Stereo Surface Imaging System)の画像を分析した結果、検出地点付近には多数の細い亀裂が存在することが分かった。亀裂の幅は数十cm程度で、高さ最大30 mの尾根に沿って数十kmにわたる割れ目群を形成している。

これらの割れ目は、地下からガスが地表へ移動する経路になり得る。特に注目されるのは、亀裂が「緯度依存性マントル物質」(latitude-dependent mantle)と呼ばれる、氷を多く含む表層堆積物を切るように発達している点だ。この堆積物の形成年代は約63万年前(0.630 Ma)と推定されている。ただし、この年代は堆積物のものであり、亀裂ができた時期や現在のガス放出が始まった時期を直接示すものではない。

研究チームは、低高度で塩化水素を検出した地点を中心に、半径約1度、火星表面で約60 kmの範囲にある公開高解像度画像を調査した。しかし、異なる時期に撮影された画像を比較しても、明確な地形変化や新たな崩落は確認されなかった。また、亀裂が極めて細いため、クレーターの数から形成年代を推定する方法も適用しにくい。火星では小さな亀裂が風で運ばれた砂塵に埋もれることもあるため、鮮明な形状が残っていることは比較的新しい地質活動を示唆するものの、形成時期の特定には至っていない。

こうした観測結果を踏まえ、研究チームは地下深部のマグマから放出された塩化水素が、断裂系を通って地表へ浸出しているという仮説を提示した。想定されるのは、マグマの脱ガスによって生じた塩化水素が、氷を含む浅い地層と相互作用しながら、地下の2層にわたる断裂システムを経由して大気へ達する仕組みだ。この場合、地表で大規模な融氷や顕著な熱異常が生じなくても、地下由来のガスだけが漏れ出る可能性がある。今回の観測で高温の噴気孔が見つかっていないこととも矛盾しない。

もっとも、塩化水素の供給源がマグマとは限らない。研究チームは、泥火山活動や、火星の土壌に含まれる過塩素酸塩の熱分解・放射線分解といった非火成起源の可能性も検討している。しかし、これらの物質や現象は火星の北半球低地に広く分布しており、アルバ山周辺の限られた地域だけで塩化水素が検出された理由を十分に説明できない。ただし、こうした代替仮説が実験や現地観測によって完全に否定されたわけではない。

火星の火山活動を確かめるには何が必要か

今回の発見は、火星内部で現在も地質活動が続いている可能性を考えるうえで重要な手がかりとなる。しかし、塩化水素の存在から地下マグマの活動を結論づけるには、観測データとモデルの両面で不確実性が残っている。

研究チームは、塩化水素が火星大気の1%未満に相当する局所領域に約1 ppbv存在し、その実効寿命が1ソルだと仮定して、地表からの供給量を試算した。その結果、浸出量の上限は3 kg/s未満と見積もられた。これは地表の噴出孔で測定した数値ではなく、大気中の濃度やガスの寿命に関する仮定から逆算したものだ。地球の火山による塩化水素の放出量と比較することはできるが、重力や大気圧、マグマの含水量、化学組成などが異なるため、単純な比較はできない。

活動がどの程度続いているのかも分かっていない。MY35とMY37という離れた時期に塩化水素が検出されたことは、複数年にわたって供給源が存在するという解釈と矛盾しない。しかし、その活動が数万年から数十万年にわたって継続しているのか、一時的なガスの放出なのかは判断できない。

研究チームはさらに、2025年夏(地球時間)に当たるMY38の遠日点期にも、アルバ山周辺で新たな塩化水素の検出シグナルを得たと報告している。ただし、この観測結果については詳細な解析が終わっておらず、定量的に確認された成果とは区別する必要がある。今後の解析によって同じ地域での検出が再確認されれば、継続的な供給源の存在を検討するうえで重要な材料になる。

もう一つの大きな未解決問題が、二酸化硫黄(SO₂)などの火山性ガスが検出されていないことだ。地球の火山では、塩化水素とともに硫黄を含むガスが放出されることが多い。しかし、今回の観測では、マグマ由来という解釈を独立に裏づける共存ガスが確認されていない。地下の帯水層や凍土層が硫黄成分を吸収しているのか、マグマの化学組成が異なるのか、あるいは供給源そのものが火山性ではないのかは、今後の検証課題となる。

今回の発見は、火星に生命が存在することや、地下に生命が生存できる熱水環境があることを示すものでもない。観測されたのは最大1.5 ppbvという極めて微量の塩化水素であり、それだけから地下の温度や水の状態、生命の存在可能性を判断することはできない。

火星で現在も火成活動が続いているかを確かめるには、アルバ山周辺で塩化水素の検出が繰り返されるかを監視するとともに、高解像度画像による地表の変化の追跡、熱赤外線観測による温度異常の探索、二酸化硫黄などの共存ガスの検出を進める必要がある。大気中の微量ガスと地表の地質構造という2つの独立した手がかりが得られたことは重要だが、両者が現在のマグマ活動によって結びついているかは、まだ証明されていない。 今後の追観測によって、この局所的な塩化水素が火星内部の活動を反映しているのかが明らかになると期待される。