2020年、ウィーン工科大学のShabir Barzanjehらは、マイクロ波帯の量子照明(quantum illumination)を初めて実験的に実証した。ジョセフソンパラメトリックコンバータ(JPC)と呼ばれる超伝導素子を使い、もつれた信号光子とアイドラー光子の対を生成して、1メートル先の室温物体を検出する。結果は古典ノイズレーダーをわずかに上回ったが、装置の心臓部は絶対温度7ミリケルビン、つまり約マイナス273.14°Cの希釈冷凍機の中にあった。

この温度が意味するものを日常のスケールに置き換えれば、液体ヘリウムをさらに蒸発させて得られる極限環境であり、冷凍機本体は机ほどの大きさを持ち、運転には数千万円規模のコストがかかる。量子レーダーや量子通信の理論的利点は1990年代から知られていたが、実用化を阻んできた最大の壁は物理原理ではなく、この「冷やさなければ動かない」という工学的制約だった。

相関マイクロ波光子対の生成原理自体は明快だ。1つの入力光子をパラメトリック過程で2つの光子に分割すると、エネルギー保存則により2つの出力光子の周波数の和が入力周波数に等しくなり、位相が互いに同期される。この「双子光子」の一方を信号として送り出し、もう一方を手元に残して受信側で相関測定を行えば、雑音に埋もれた微弱信号を抽出できる。量子レーダー、耐ジャミング通信、量子シミュレータのいずれも、この相関光子対を前提に設計されている。

問題は、この分割を担う素子が超伝導体でなければならない点にあった。超伝導状態を維持するには臨界温度以下に冷やす必要があり、ニオブやアルミニウムベースのJPCではミリケルビン領域が標準となる。つまり、相関光子対という「量子技術の種」は、極低温という「特殊な土壌」でしか芽を出せなかった。

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磁石の非線形性が拓いた別の道

MIT電気工学・計算機科学科のLuqiao Liu(劉路遥)准教授のグループは、別の研究を進めている途中で意外な事実に気づいた。相関マイクロ波信号の生成に、超伝導回路は必ずしも必要ない。磁性体、すなわち磁石でも同じことができる。

磁性体の中では、電子スピンが集団的に歳差運動を起こす。この集団励起を量子化した準粒子がマグノンである。マイクロ波光子を磁性体に注入すると、1つの光子が2つのマグノンに分裂するパラメトリック過程が起きる。この現象自体は1960年代から強磁性共鳴の研究で知られていた。

しかし、従来のパラメトリックマグノン生成には致命的な制約があった。生成される2つのマグノンが同じ周波数を持つ(縮退している)ため、周波数で区別して取り出すことができない。一方を信号に、もう一方を鍵に使おうとしても、同じ周波数の2つの波を重ね合わせたのでは分離しようがないのだ。

Liuらの着想は、ここに「空洞マグノニクス(cavity magnonics)」の物理を持ち込むことだった。磁性薄膜をマイクロ波共振器の中に置き、マグノンモードと共振器の光子モードを強く結合させると、レベル反発(level repulsion)が起きる。2つのモードの周波数が近づくと、互いに「避け合う」ように周波数が離れる現象だ。

研究チームは、プリント基板上に作製したマイクロストリップ共振器を設計した。この共振器は半波長モード(周波数約3.354 GHz)と全波長モード(約6.709 GHz)の2つの共振を持ち、両者の周波数が正確に2倍の関係になるよう寸法が調整されている。YIG薄膜を共振器の狭い部分(幅40マイクロメートル)に配置し、全波長モードに相当する6.708 GHz、出力12 dBmのマイクロ波をポンプとして注入した。

すると、レベル反発によって2つのマグノンポラリトン(マグノンと光子の混合準粒子)の周波数が分離し、3.3532 GHzの信号モードと3.3548 GHzのアイドラーモードとして取り出せるようになった。周波数差はわずか1.6 MHzだが、このわずかな差が「双子」を識別可能にする。しかも、この全過程が室温で起きる。

475ピクセルの画像が雑音の中で生き残った

Liuらは、生成された相関信号対を使って通信実験を行った。信号チャネルにQPSK(4相位相偏移変調)で情報を載せ、500 Hzの変調周波数で送信アンテナから放射する。受信側では、アイドラーチャネルと相関演算を行って情報を復号する。

各チャネルの位相は個別には完全にランダムだ。盗聴者が信号チャネルだけ傍受しても、ランダムな位相しか得られない。情報を復元するには、対応するアイドラーチャネル、すなわち「鍵」が必要になる。

研究チームは475ピクセルの2値画像をこの方式で送信した。2つのチャネルにはそれぞれ雑音が重畳されていたが、相関演算によって雑音が除去され、ビットエラーゼロで画像が再構成された。

LiuはMITのプレスリリースで次のように述べている。「マグノン系は驚くほど豊かな非線形力学を示すが、これらの非線形性は非線形光学や他の力学系ほどには実用化されていない。本研究では、同じポンプ光子から生成される『双子』マグノンのスペクトル重複という重要な課題に取り組んだ。マグノンとマイクロ波光子の結合に由来するレベル反発を利用することで、2つのマグノンを周波数で分離できた」

University of ManitobaのCan-Ming Hu教授(本研究には不参加)は、この成果を「空洞マグノニクスにとって重要なマイルストーン」と評価し、「非可干渉マイクロ波生成の段階を超え、多チャネル相関マイクロ波光子の生産へと分野を拡張するものだ」と述べた。

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超伝導方式との構造的な違い

この研究の位置づけを明確にするため、既存の相関マイクロ波源との比較を整理する。

項目 JPC(超伝導方式) 本研究(空洞マグノン方式)
動作温度 約7 mK(絶対零度付近) 室温(約300 K)
冷却装置 希釈冷凍機(大型、高価) 不要
素子基盤 超伝導回路(ニオブ等) プリント基板+YIG薄膜
出力信号 もつれた光子対(量子領域) 相関ポラリトン対(現状は古典領域)
周波数分離 設計で非縮退化可能 レベル反発で非縮退化(本研究の新知見)
実証デモ 量子照明(Barzanjeh 2020, 1 m検出) QPSK通信+画像伝送(475ピクセル、エラーゼロ)
スケーラビリティ 冷凍機ごとに1チップ程度 PCB製造プロセスと親和性が高い

動作温度の差は約4万3000倍(7 mK対300 K)に達する。この差がそのまま、装置のサイズ、コスト、消費電力の差に直結する。

ただし、重要な留保がある。本研究の現状は「古典領域」での実証だ。室温では熱光子数が周波数3.35 GHzで1モードあたり約1000個に達し、量子もつれは熱雑音に埋もれてしまう。研究チームは論文で「動作温度を下げて熱寄与を抑制すれば、無条件の安全性、すなわち2モード間の量子もつれを確立・検出できる」と述べており、量子領域への到達は今後の課題として明示されている。

偶然から生まれた発見が示すもの

この研究の起源は、Liuグループが別のテーマを追いかけていたときの偶発的な観察だった。磁性体の非線形応答を調べている最中に、相関信号が室温で生成されていることに気づいたのだ。Liuはプレスリリースで「量子シミュレータの室温化に向けた道を開きたい」と語っている。量子シミュレータは、古典コンピュータでは扱えない亜原子粒子の複雑な相互作用を模倣する装置で、新薬や新材料の探索に使われる。相関マイクロ波信号はこうしたシミュレータの構成要素であり、室温で生成できればコストと規模の両面で利点が大きい。

研究チームは現在、スケーラブルなアーキテクチャへの拡張と、相関マイクロ波信号の基礎物理の探求を次の目標に掲げている。また、WangとLiuはMIT Technology Licensing Officeに特許開示を提出済みで、MITが特許保護を進めている。

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室温から量子へ、残された距離

この素子が真の量子技術、すなわち無条件安全性を持つ量子暗号や量子優位性を持つレーダーに到達するには、少なくとも2つの段階が必要だ。第一に、デバイスを低温化して熱光子数を抑え、2モード圧縮状態(量子もつれ状態)を実証すること。第二に、単一マグノンレベルでの検出と制御を実現すること。

空洞マグノニクス分野自体は2014年頃にYIG球とマイクロ波空洞の強結合が報告されて以来、急速に発展してきた。しかし、非線形領域での実用的な応用は今回の研究が最初の一歩にあたる。Hu教授が「非線形空洞マグノニクスに基づく量子触発型マイクロ波センシング・通信技術の出発点として記憶されるかもしれない」と述べたのは、この位置づけを反映している。

室温で相関信号が得られるという事実は、量子技術が「特殊な実験室の装置」から「実世界のインフラ」へと移行するための、一つの具体的な経路を示した。その経路の先に何があるかは、次の低温実験の結果が語るだろう。