現代の物理学が直面する最も困難な課題の一つは、微視的な世界で生じる「量子もつれ」の全貌を、大規模なシステムにおいて正確に把握する手法の確立だ。日本大学文理学部物理学科の山本大輔准教授、同自然科学研究所のGiacomo Marmorini研究員、および早稲田大学理工学術院の福原武教授(理化学研究所量子コンピュータ研究センターチームディレクター)からなる研究チームは、この長年の障壁を打ち破る革新的なアプローチを提示した。それは、個々の量子ビットを直接操作するのではなく、系全体に対して測定軸を螺旋状に変化させる「螺旋量子状態トモグラフィ(Spiral Quantum State Tomography)」という手法である。
2026年3月18日、アメリカ物理学会が発行する国際学術誌『PRX Quantum』に掲載された本成果は、複雑化の一途をたどる量子シミュレータの性能評価を現実的なコストで実現する基盤技術として世界の注目を集めている。
爆発的に増大する測定コストという量子力学の壁
古典力学の世界では、物体の状態は位置や速度といった直接測定可能な物理量の組み合わせによって完全に記述される。対照的に、量子力学が支配するミクロな領域では、粒子の状態は「波動関数」あるいは「密度行列」と呼ばれる数学的な表現によって記述され、ある物理量を測定した際にどの値がどのような確率で得られるかという確率分布として姿を現す。この確率的な揺らぎの背後にある完全な量子状態を把握するための解析手法が、「量子状態トモグラフィ」と呼ばれるプロセスである。
このアプローチは、重心の偏った歪んだサイコロの性質を調べる作業に似ている。数回振っただけではどの目が出やすいかを正確に知ることは不可能に近いが、何千回と繰り返し振って統計をとることで、そのサイコロの隠された確率的性質を高い精度で推定できる。量子状態トモグラフィも同様に、多様な測定軸で繰り返し観測を行い、得られたデータの集合から元の波動関数や密度行列を逆算して再構築する手順を踏む。
深刻な問題は、複数の量子ビットが複雑に絡み合う「量子もつれ」などの特異な性質を持つ量子系において、系の次元が大きくなるにつれて再構築に必要な独立した測定パラメーターの数が指数関数的に増大するという物理的制約である。従来のトモグラフィ手法は、量子ビットを一つ一つ個別に操作し、それぞれに異なる測定設定を用意する必要があった。光格子中に捕捉された冷却原子系のような有望な量子シミュレータのプラットフォームにおいて、光の回折限界に迫る狭い間隔で配列された個々の原子を独立して操作することは、極めて高い技術的ハードルを要求される。
磁性体のスピン構造に学ぶ「螺旋測定」のメカニズム

この次元の呪いと個別制御の困難を根本から解決するため、研究チームは測定のパラダイムを大きく転換させる手法を考案した。着想の源流となったのは、特定の磁性体に自然に現れるスピン(粒子の持つ磁石の性質)の「螺旋構造」である。個別の量子ビットを一つずつ狙い撃ちにして異なる測定軸を設定する手順を完全に放棄し、系全体に対して一様に変化する操作を施すことで、結果として各位置の測定軸が少しずつ回転していく状況を作り出すというアプローチを採用した。
具体的な操作手順として、直線上に並んだ量子ビット群に対して、位置に比例して強度が変化する「磁場勾配」を短い時間適用する手法を用いる。この操作により、各量子ビットにはZ軸回りの回転ゲートが作用するが、その回転角は位置に応じて線形に変化していく。結果として、系全体を見渡すと測定軸が空間的に螺旋を描くようなパターンが形成され、単一のグローバルな操作によって系全体から多様な相関情報を同時に抽出することが可能になる。
螺旋の「ピッチ角(巻き具合)」は、磁場勾配の強さや印加時間を変えることで容易に調整できる。異なるピッチ角を持つ複数の螺旋パターンで系全体を一括して測定することにより、個別の精密制御を一切用いることなく、状態の再構築に必要な情報網を効率的に張り巡らせる仕組みが完成した。複雑な配線や個別の照射レーザーを不要とするこの測定プロトコルは、大規模化する量子系の解析において劇的な効率化をもたらす。
圧縮センシングアルゴリズムによるデータの高効率復元
螺旋測定によって得られたデータから元の完全な密度行列を復元するプロセスにおいて、研究チームは「圧縮センシング」と呼ばれる高度なデータ処理手法を統合した。自然界に現れる多くの物理状態、特に低温における多体系の基底状態は、数学的に表現した際に極端に情報が偏った「低ランク」な行列として記述できる性質を持つ。圧縮センシングはこの隠れた簡略性を利用し、理論上必要とされる完全な測定データセットのわずかな部分から全体を正確に再構築する技術である。
本研究では、特異値閾値処理(SVT)アルゴリズムを採用し、古典コンピュータ上で詳細な数値シミュレーションが実行された。8個の量子ビットからなる純粋状態や混合状態を対象としたテストにおいて、螺旋測定は極めて高い忠実度(フィデリティ)を記録した。全状態空間を網羅するための膨大な測定設定のわずか数パーセントを実行するだけで、系の状態を正確に捉えることに成功したのである。従来のパウリ行列に基づくランダムな個別測定手法と比較しても遜色のない精度が実証され、測定にかかる時間と計算リソースの劇的な削減が達成された。
実験ノイズへの耐性とエンタングルメントの定量評価
新しい測定手法を実際の実験環境に適用する際には、不可避な物理的ノイズに対する堅牢性の検証が不可欠となる。研究チームは光格子と量子ガスマイクロスコープを用いた実験セットアップを想定し、磁場勾配のゼロ点が時間的に変動するエラーを主要なノイズ源としてシミュレーションに組み込んだ。
1次元のハイゼンベルグ模型の基底状態のように、系が全体として高い回転対称性(SU(2)対称性)を保持している場合、この磁場変動ノイズの影響はほぼ完全に相殺される。測定結果の確率分布が系の持つ対称性によって保護されるため、ノイズが存在してもトモグラフィの精度が劣化しないという強固な物理的メカニズムが働くことが判明した。対称性が背後にある法則を守る盾となり、観測の不確かさを打ち消す効果を生み出している。
一方で、ジャロシンスキー・守谷(Dzyaloshinskii-Moriya)相互作用を含む系のように、対称性がU(1)へと制限された環境ではノイズの影響が顕在化する。この問題に対処するため、研究チームは対象となる量子系の性質から「最も情報を保持しているピッチ角」を事前に予測し、優先順位をつけて測定を行う階層的な最適化戦略を導入した。この工夫により、ノイズ環境下であっても再構築の精度と効率のトレードオフを高度に最適化できる道筋が示された。
この手法の最大の成果は、再構築された部分系の縮約密度行列から直接、フォン・ノイマン・エンタングルメント・エントロピーやレニー・エントロピーといった量子もつれの強度を示す指標を高精度に算出できる点にある。14サイトの系において分割された部分系(例えば7サイト)のエントロピーを抽出した結果、理論値と極めてよく一致するデータが得られた。偶数サイトに分割した際に生じるエントロピーの過小評価現象も、圧縮センシングアルゴリズムが特異値の小さな成分を切り捨てる特性に起因するものであり、計算手法の物理的な挙動を深く理解する上で有益な知見を提供している。
光格子時計から初期宇宙の探求へ繋がる未来の展望

螺旋量子状態トモグラフィの開発は、量子情報科学が直面していたデータの取得コストという深刻なボトルネックを解消する突破口となる。アナログ量子シミュレータが数十から数百の量子ビット規模へと急速に拡張していく現状において、生成された複雑な量子状態を現実的な労力で検証し理解する手法の確立は、ハードウェアの物理的な構築と同等の価値を持つ。
レーザー光の干渉を用いて原子を規則正しく配列させ、高い自由度で物理現象を模倣する光格子中の冷却原子系において、この手法の真価は最大限に発揮される。個々の原子を操作できないという光学的な制約を逆手に取り、系全体を包み込むようなマクロな螺旋測定によってミクロな量子もつれのネットワークを読み解くこのアプローチは、量子磁性や高温超伝導のメカニズム解明に直結する。
この観測技術の成熟は、新しい物質の設計や動的な非平衡過程の解析を前例のない速度で推し進める。ブラックホールの事象の地平線付近で生じる情報パラドックスの検証や、初期宇宙の急激な膨張ダイナミクスといった究極の物理法則を、卓上サイズの量子シミュレータ上で再現し解析するという壮大な試みを支える強固な基盤となる。未知の量子領域の構造を精緻に描き出す新しい観測の眼が、次世代の科学技術の発展を牽引していく。
論文
- PRX Quantum: Measuring Entanglement Without Local Addressing in Quantum Many-Body Simulators via Spiral Quantum State Tomography
参考文献
- 理化学研究所:量子のもつれを“螺旋(らせん)”で読む



