チェスAIは、人間より強く指すとき、盤面を同じように扱っているわけではない。Complexity Science Hubとパルマ大学の研究チームは、人間のグランドマスター戦1,200局と、Stockfish対Leela Chess Zeroの1,200局を一手ずつ解析し、AIが駒同士の相互作用を長く残す傾向を見いだした。論文は2026年7月17日、APS Open Scienceに受理された。勝率や最善手の精度から離れ、複雑な局面をいつ解消するかに注目した研究である。

研究チームが測ったのは、棋士が感じる心理的な緊張ではない。盤上の攻撃、防御、空きマスの支配をネットワークへ変換し、その結びつきがどれほど複雑かを数値にした。人間は一時的にAIを上回るほど高いピークへ達するが、その後は速く駒を交換する。AIはピークを過ぎても、盤面全体の複雑さを長く抱えたまま指し続ける。

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64マスを相互作用のネットワークへ変える

研究チームは、各半手の局面から最大64ノードのネットワークを作った。ノードは盤上の駒か空きマスであり、相手の駒を次の一手で取れる場合は「攻撃」、取り返せる配置なら「防御」、相手が移動できる空きマスを押さえていれば「支配」として結ぶ。手番を無視して盤面全体を捉えることで、白黒双方に残る未解決の関係を同時に数えた。

「戦略的緊張」の値には、ネットワークの隣接行列で最大となる固有値、すなわちスペクトル半径を使う。多くの駒とマスが密につながり、ある駒の移動が離れた部分にも連鎖し得る局面ほど値は高くなる。論文は、150半手までの値を合計した「tension load」も用意し、一局を通じてどれほどの複雑さを維持したかを比べた。

ただし、この数値は合法手の総数や探索木の大きさを直接数えてはいない。優れた手を選んだか、棋士が主観的に難しいと感じたかも測定対象外である。著者が定義したネットワーク指標を通じて、盤上に残る攻撃、防御、支配の絡み合いを追ったものだ。

人間は高く張り、AIは長く保つ

平均的な推移は、人間戦とAI戦で序盤までは似ていた。駒が展開され、接触が増えるにつれて戦略的緊張は上昇し、中盤で高い水準へ達する。そこから駒交換が進むとネットワークは小さくなり、緊張も下がっていく。違いは、ピークの高さより、その後の下がり方に現れた。

人間の最上位層は、およそ40半手まで深く研究された定跡をたどり、瞬間的にはAIより高い緊張へ達した。しかし定跡から外れて自力の計算へ移ると、駒を交換して局面を早く単純化する。対するStockfishとLeela Chess Zeroは、最高点が人間より低くても、高い緊張をより多くの手数にわたって維持した。研究者のVito D. P. Servedioは、人間は複雑さを早く減らす一方、AIはそれを保てると説明している。

盤上の別の量も同じ差を支える。AI戦では平均して多くの駒が終盤まで残り、相互作用のリンクと閉じた経路も多かった。攻撃と防御の結びつきも人間戦より均衡していた。一方、人間戦は捕獲が多く、残った一駒あたりの緊張は全局面を通じてAIより高い。人間は少ない駒へ複雑さを集中させ、AIは多くの駒へ分散した関係を長く残すという違いである。

比較に使ったAI対局は、2019〜2024年のTop Chess Engine Championship(TCEC)公式大会から取得した。人間のグランドマスター戦はPGN Mentorの棋譜を使っている。両者は持ち時間も開始条件も完全にはそろっていないため、研究チームは技能水準を合わせた追加比較や無作為手のベンチマークも実施した。それでも、観察データを含む比較であり、実験室で全条件を統制した人間対AI試験ではない。

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強さとの相関を、無作為手が試す

複雑さを長く保つ傾向は、人間の棋力と持ち時間に沿って強まった。Lichessから集めた幅広い棋力層のrapidとblitzでは、Eloとtension loadの線形回帰がそれぞれR²=0.970、0.975となった。各データ点は1,200局の平均である。最上位の人間でも、短時間対局よりclassicalの方が累積緊張は高かった。

AI側では、Stockfishの探索深度を固定した自己対局を作り、計算量との関係を調べた。上位人間戦から無作為に選んだ最初の12半手を与え、その後は一方を深度DまたはD+1、他方をDまたはD-1で動かす。各深度120局の結果では、深く探索するほどtension loadが増え、回帰はR²=0.497、p=0.023だった。人間では時間と技能、Stockfishでは探索深度が、複雑な関係を維持できる範囲と結びついた。

しかし、高い緊張をそのまま高品質なプレーとみなすことはできない。合法手を一様に選ぶ300局の無作為対局は、人間やAIより高い緊張を中盤以降も保った。駒を目的に沿って交換せず、偶然の相互作用が盤上に蓄積したためである。AIと無作為対局は駒を取る頻度が近くても、緊張の時間曲線は異なった。

したがって、この研究が捉えたのは「複雑なら強い」という直線的な関係ではない。無秩序に関係を増やす手と、目的を保ちながら多くの相互作用を残す手を区別する必要がある。技能や探索深度との相関が意味を持つのは、少なくとも勝利を目指す戦略的なプレーの中で比較した場合だ。

ポーン1個分の優勢でも勝敗は確定しない

主比較の全対局をStockfishの深度20で評価すると、40半手時点で100センチポーン、つまりポーン1個分以上の優勢を持つ側が最終的に勝った割合は、人間戦で約71%、AI戦で約59%だった。評価値が明確に傾いても、残り約3割から4割では優勢側が勝っていない。1回の局面評価を、そのまま確定した勝敗として扱えないことが分かる。

優勢が生まれた後は、人間もAIも駒を交換し、局面を単純化する方向へ動く。ただし、AIは人間より多くの駒と相互作用を残したまま、その局面へ移る。複雑さを保つこと自体が目的なのではなく、攻防の関係をどこまで抱えたまま有利な局面へ運べるかが違う。今回のネットワーク指標は、その違いを測るための一つの物差しである。

現実のAIへ話を広げる際は、測定範囲を守る必要がある。チェスはルールと盤面がすべて見える完全情報ゲームだが、外交、金融市場、軍事計画には隠れた情報と外生的なショックがある。論文も直接の外挿に注意を促しており、今回のデータはAIが交渉や紛争を有利に進めることも、危険にすることも実証していない。また、人間が認知負荷のために局面を単純化したという説明は、棋譜から得た解釈であり、眼球運動や発話、ストレス反応で因果を確かめたものではない。

次の検証では、StockfishとLeela Chess Zero以外の設計でも同じ時間曲線が出るか、人間と同じ棋力へそろえたとき差が残るかを確かめる必要がある。さらに、囲碁や将棋、不完全情報ゲームへ指標を移し、複雑さの維持が成績や安全性とどう結びつくかを別々に測らなければならない。著者は解析コードと、図5を除く主要図用データをGitHubで公開した。Eloや探索深度を扱う図5の数値をそのまま再現するには、公開リポジトリ外のデータも必要になる。別の設計でも結果が再現されれば、AIが人間より良い手を選ぶ理由を、計算量の多さから、どの関係をいつまで未解決のまま扱えるかへ進めて説明できるだろう。