2025年7月1日、ドイツを拠点とするRISC-VプロセッサIPの有力企業Codasipは、取締役会が会社の売却プロセスを正式に開始したと発表した。CEOのRon Black氏が率いる同社は、今後3ヶ月以内の売却完了を目指し、企業全体または事業部門ごとの売却を検討しているという。
このニュースは、オープンソースの命令セットアーキテクチャ(ISA)であるRISC-Vのエコシステム全体に衝撃を与えると同時に、技術の理想とビジネスの現実との間で揺れ動く半導体業界の現状を浮き彫りにしている。そして、オープンソース命令セットアーキテクチャ(ISA)であるRISC-Vの商業化が直面する厳しい現実、そして欧州連合(EU)が掲げる「デジタル主権」戦略の行方を占う上で、極めて重要な意味を持つものだ。
なぜ今、身売りを決断したのか? 水面下の買収提案と加速するプロセス
Codasipの発表は突然に見えるが、その引き金は水面下で引かれていた。同社によれば、最近実施した資金調達ラウンドの過程で、ある企業から買収に関する具体的な関心表明があったという。これを受け、取締役会は正式な売却プロセスへと舵を切ることを決定した。
注目すべきは、そのスピード感だ。Codasipは、7月1日から開始した売却プロセスを「今後3ヶ月以内」という極めて短い期間で完了させることを目指している。これは、すでに有力な買収候補が存在し、交渉がある程度進んでいる可能性を強く示唆している。「加速された」プロセスという表現が、事態の緊急性を物語っていると言えるだろう。
同社は、会社全体の売却だけでなく、事業部門ごとの分割売却にもオープンな姿勢を見せている。これは、買収者の多様なニーズに応える柔軟な戦略であり、売却の可能性を最大化しようとする狙いが透けて見える。
買収者が手にする「4つの宝」と巨額のEU資金
では、買収者はCodasipから何を得るのだろうか。同社の価値は、主に4つの事業部門と、それに付随する莫大な公的資金にある。
- 標準プロセッサポートフォリオ: 自動車グレード(ISO26262等)にも対応した、アプリケーションおよび組込み向けのRISC-VプロセッサIP群。
- CHERIベースのセキュアプロセッサ: メモリ安全性の脆弱性に対処するCHERI(Capability Hardware Enhanced RISC Instructions)アーキテクチャを実装した、先進的なセキュアプロセッサと関連ソフトウェア。
- EDAツール「Studio」: プロセッサのカスタマイズや開発を可能にする独自の電子設計自動化(EDA)ツールセット。これがCodasipの技術的な核の一つである。
- 高性能プロセッサ開発(DAREプロジェクト): 欧州連合(EU)の「DARE (Digital Autonomy with RISC-V in Europe)」プロジェクトの一環として開発中の、高性能アプリケーションプロセッサ。
興味深いのは、これらの事業部門が「分離可能」であると明言されている点だ。特定の技術や製品群だけを狙う企業にとっても、魅力的な買収対象となり得る。
そして、この売却案件をさらに魅力的にしているのが、EUや各国政府から約束された巨額の資金だ。現在までに約束された助成金や出資は総額1億1900万ユーロに上り、その大部分はまだ未受領の状態だという。さらに、プロジェクトの次期フェーズで2億1000万ユーロ、新たなコンソーシアムを通じて5100万ユーロ以上が追加される見込みで、合計で3億8000万ユーロ(約620億円相当)を超える可能性がある。
Codasipは、これらの資金が「合理的な条件の下で」買収者に譲渡可能であると強調している。これは、買収者にとって、単に技術や人材を獲得するだけでなく、将来の研究開発費を大幅に軽減できる強力な「持参金」となるだろう。
RISC-V「冬の時代」の到来か? SiFive、Intelに続く撤退と再編の波
Codasipの売却は、単独の事象ではない。RISC-Vエコシステム全体が、商業化の壁に直面しているという大きな文脈の中に位置づけられる。
- 2023年: RISC-Vのパイオニアである米SiFiveが、従業員の20%を解雇するという大規模なリストラを断行。
- 2023年: Intelが、RISC-V開発者向けプラットフォーム「Pathfinder」を突如終了。
- 2025年初頭: 英国のImagination Technologiesが、GPUとAI事業に集中するため、RISC-Vプロセッサコアの開発から撤退。
オープンで誰でも使えるという理想を掲げてきたRISC-Vだが、ビジネスとして収益を上げ、持続的に成長することの難しさが露呈している。Synopsysのような半導体IPの巨人が本格的なRISC-V製品群を投入し、主要チップメーカーがQuintaurisコンソーシアムを設立するなど、競争環境はむしろ激化している。
Codasipも例外ではない。2022年には創業者であるKarel Masarik氏が第一線を退き、研究開発部門であるCodasip Labsの運営に専念するなど、経営体制にも変化が見られた。年間推定売上高8870万ドルは、SiFive(昨年約6000万ドル)やVentana Micro Systems(約3740万ドル)と比較しても大きな規模だが、それでもなお、単独での成長には限界があったということかもしれない。
「CPU設計は金がかかる」- アナリストが指摘するRISC-V商業化の3つの壁
なぜRISC-Vの商業化はこれほどまでに困難なのか。IDCのシニアリサーチディレクター、Andrew Buss氏の指摘は、その核心を突いている。
第一の壁は、莫大な研究開発コストだ。「CPU設計は金がかかるビジネスだ」という言葉に尽きる。市場での受け入れが進まず、収益がすぐに見込めない場合、長期的な資金供給が不可欠となる。
第二の壁は、エコシステムの構築だ。特に、カーネルレベルのソフトウェア開発者の一部には、「RISC-Vは命令セットとして革新的ではなく、過去の過ちを繰り返している」という厳しい見方さえあるという。ハードウェアが存在するだけでは不十分で、その上で動くソフトウェア、開発ツール、そして開発者コミュニティが成熟しなければ、既存のアーキテクチャ(x86やArm)の牙城を崩すことはできない。
第三の壁は、既存アーキテクチャからの移行インセンティブだ。データセンター市場を例に取ると、Armでさえハイパースケーラーによる自社設計を除けば、大きな成功を収めているとは言い難い。そのArmベースのサーバーチップを手掛けていたAmpereがソフトバンクに買収された事実は、この市場の厳しさを物語っている。圧倒的なエコシステムを持つArmですら苦戦する中で、RISC-Vが明確な優位性を示し、顧客に移行を決断させるのは至難の業だ。
欧州「半導体自主権」の夢はどこへ? DAREプロジェクトの中核企業売却が示すもの
Codasipの売却が持つ意味は、技術やビジネスの領域に留まらない。これは、欧州の地政学的な戦略にも大きな影響を及ぼす可能性がある。
EUは「DARE」プロジェクトなどを通じて、RISC-Vを欧州の「デジタル自主権(Digital Autonomy)」を確立するための鍵と位置づけてきた。米国の技術への過度な依存から脱却し、独自の半導体エコシステムを構築するという野心的な目標だ。その中核を担う一社であるCodasipが、場合によっては域外の企業に買収されるかもしれないという事態は、この戦略そのものの脆弱性を露呈しかねない。巨額の公的資金が、結果として欧州の競争相手を利することになるという皮肉なシナリオも十分に考えられる。
誰がCodasipを買うのか? 垂直統合か、IPライセンス拡大か。2つのシナリオ
Codasipのチーフ・プロダクト・オフィサー、Jamie Broome氏は、買収後のシナリオとして2つの可能性を提示している。
- 垂直統合型プレイヤーによる買収: 自動車メーカーや大手IT企業などが、自社製品に搭載するカスタムチップを迅速に内製化するためにCodasipの技術(特にEDAツール「Studio」)と人材を獲得するケース。
- IPライセンス事業の拡大を目指すプレイヤーによる買収: Armのように、CodasipのIPポートフォリオをさらに拡大・強化し、ライセンス事業でスケールを狙う企業。これは他の半導体IP企業や、技術系に強い投資ファンドなどが想定される。
いずれのシナリオが現実になるにせよ、Codasipが培ってきた技術と、EUからの資金という「持参金」は、買収者にとって大きな価値を持つことは間違いない。
オープンアーキテクチャの長い道のり:Armの歴史が教える、RISC-Vが越えるべき本当の試練
新しいプロセッサアーキテクチャを確立する道は、長く険しい。1990年に設立されたArmが、モバイル市場で確固たる地位を築き、コンピューティングの世界で本格的な影響力を持つまでに、実に20年以上の歳月を要した。
Codasipの売却は、RISC-Vの夢の終わりを意味するものではないだろう。むしろ、理想を掲げる黎明期を終え、商業化という厳しい現実の「死の谷」を越えようとする、エコシステム全体の通過儀礼と見るべきかもしれない。オープンであることの価値と、ビジネスとして生き残ることの厳しさ。この両立という難題にどう向き合うか。Codasipの行く末は、RISC-Vの未来を占う試金石となる。
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