2016年、SamsungのGalaxy Note 7が世界中で発火し、約250万台のリコールに至った。原因はリチウムイオン電池内部の有機溶媒系電解液だった。この液体はリチウムイオンを高速で運ぶ能力に優れる一方、引火性が高い。電気自動車や電力貯蔵システムの大容量化が進むほど、この矛盾は深刻になる。
固体電解質で液体を置き換える全固体電池は、この問題を原理的に解決する。不燃性の固体材料を使えば、発火リスクは大幅に下がる。加えて、リチウム金属負極との組み合わせにより、エネルギー密度の向上も見込める。
ただし、固体の中でリチウムイオンを十分に速く動かすことが、この分野の最大の壁であり続けてきた。
2011年の発見が示した可能性と、その先の空白
2011年、東京工業大学の菅野了次教授らのグループが硫化物系固体電解質 (LGPS)を発表した。室温でのイオン伝導度は12 mS/cm。これは有機電解液の伝導度を超え、固体電解質の性能が液体に匹敵しうることを初めて示した成果だった。
この発見以降、固体電解質の探索は活発化した。しかし、LGPSの発見自体が三元系状態図の地道な探索と偶然の観察(研磨条件下で伝導度が下がらないことの発見)に負っていたように、新材料の探索は研究者の直感と労力に大きく依存してきた。
第一原理計算(密度汎関数理論、DFT)や分子動力学(MD)シミュレーションによるスクリーニングも試みられてきたが、計算コストが膨大だ。1物質のイオン伝導度を物理シミュレーションで評価するのに数万CPU時間がかかる。高スループットDFTスクリーニングで扱える候補は、予備絞り込みを経ても数百件が限界とされる。
一方、近年の機械学習アプローチは、この壁を越える可能性を提示してきた。ただし、既存のAIモデルの多くは正確な結晶構造データを入力として要求する。新材料や実験的に報告されたばかりの化合物では、結晶構造が未確定の場合が多い。この「構造データのない候補をスクリーニングできない」という制約が、AI活用のボトルネックになっていた。
組成式だけでイオンの動きを予測するIonNetの設計思想
コーネル大学のFengqi You教授(化学・生体分子工学)と博士研究員のZhilong Wang氏が2026年8月7日にScience Advancesで発表したフレームワークIonNetは、この制約を正面から取り除いた。
IonNetの正式名称は論文タイトルに反映されている。「記述子誘導型転移学習フレームワーク(descriptor-guided transfer learning framework)」だ。この名称が示す通り、入力として使うのは結晶構造ではなく化学組成のみである。
You教授はコーネル大学のプレスリリースで次のように説明している。「材料向けAIモデルの多くは信頼できる結晶構造を必要とするが、新規化合物や実験的に報告された化合物ではそれが得られないことが多い。IonNetは正確な結晶構造がなくても、化学組成からイオンの移動度を予測する」
この設計は、材料探索のワークフローにおける「順番」を変える。従来は、まず結晶構造を決定し、その構造をもとにAIやシミュレーションで評価するという流れだった。IonNetは、組成式がわかれば即座にスクリーニングを通せる。結晶構造の決定は、候補が絞り込まれた後の段階で済む。
4,500件から500万件へ。探索空間の拡張がもたらした数字
研究チームはIonNetを2段階で適用した。
第一段階では、既知の安定化合物約4,500件をスクリーニングし、87件の高速イオン伝導体候補を特定した。第二段階では、既存の組成に対して元素置換を系統的に施し、約500万通りの組成を生成してIonNetにかけた。その結果、約6万3,000件が高速イオン伝導体として有望な特性を持つと判定された。
この6万3,000件という数は、従来手法の探索規模と比較すると際立っている。高スループットDFTスクリーニングで扱えるのが数百件程度であることを考えると、IonNetは探索空間を2桁以上広げたことになる。
| 項目 | 従来手法(DFT・MD) | IonNet |
|---|---|---|
| 入力データ | 結晶構造+組成 | 化学組成のみ |
| 1物質あたりの計算コスト | 数万CPU時間 | 大幅に低い(スクリーニング段階) |
| 探索可能な候補数 | 数百件程度 | 約500万件をスクリーニング可能 |
| 今回の特定候補数 | (先行研究で数十件規模) | 約63,000件 |
65%の的中率が示すこと、示さないこと
AIの予測が信頼に足るかどうかを検証するため、研究チームは候補から約20件を選び、物理ベースのシミュレーションで追検証した。結果、13件が高速イオン伝導体として確認された。的中率は65%だ。
この数字の読み方には注意がいる。65%は「AIの予測が完全に正しい」ことを示すものではなく、高コストなシミュレーションに回す候補を20件に絞った段階で13件が当たった、という段階的な検証の結果である。残りの7件がなぜ外れたのか、IonNetの予測が過大評価したのか、それともシミュレーション条件の違いによるのかは、論文の詳細を確認する必要がある。
また、物理シミュレーションによる確認はあくまで計算上の検証であり、実際に合成して測定したわけではない。候補材料の化学的安定性、電極との界面での反応、長期サイクル特性といった工学的に重要な特性は未評価のまま残っている。
You教授はIonNetの位置づけを明確にしている。「IonNetは実験や高精度シミュレーションを置き換えるものではない。大規模な実験的・計算的資源を投じる前に候補を優先順位づけする、高速なフロントエンドだ」。
「なぜ速いか」を語れるAI
IonNetのもう一つの機能は、化学的デザインルールの抽出である。単に「この組成が有望」とリストを出すのではなく、どの元素の組み合わせや化学環境がリチウムイオンの高速移動に関連するかを特定できる。
You教授は「有望な材料のリストが欲しいだけではなかった。リチウムイオンがなぜ速く動くのか、その化学原理を理解したかった。それこそがAIを実験設計に活かす道だからだ」と述べている。
この「説明可能性」は、材料科学におけるAI活用の成否を分ける要素だ。ブラックボックス型のモデルが高い予測精度を出しても、実験家が次に何を合成すべきかの指針にはならない。IonNetが提示するデザインルールは、合成化学者が直感的に理解し、実験計画に反映できる形式を目指している。
濃淡電池の「0.059 Vの壁」を越えた第二の研究
同じ研究チームは、もう一つの成果を2026年6月5日にNature Communicationsで発表している。こちらは固体電解質ではなく、濃淡電池(concentration battery)の電圧に関する研究だ。
濃淡電池は、両方の電極に同じ酸化還元対を使い、電解液の濃度差だけで起電力を得る電池である。1889年にWalther Nernstが定式化したネルンスト方程式によれば、室温で濃度が1桁異なる場合の起電力は約0.059 Vにとどまる。この熱力学的制約のため、濃淡電池は実用的なエネルギー貯蔵手段とは見なされてこなかった。
コーネル大学とプエルトリコ - レシント・デ・リオ・ピエドラス大学の共同研究チームは、電解液中のイオンが周囲の分子とどう配位するか(溶媒和構造)を操作することで、この制約を回避した。カソード側では高濃度電解液を使って正極の酸化還元電位を上げ、アノード側では強配位性の電解液で自由イオン濃度を下げて負極の酸化還元電位を下げる。この非対称な電解液設計により、亜鉛系および銅系の濃淡電池で0.6〜0.7 Vの電圧を達成した。従来の想定値0.059 Vの10倍以上である。
さらに、この電解液戦略を通常の電極材料と組み合わせることで、水系全セル電池として2.2〜2.5 Vの動作電圧を実現した。アルカリ単三電池の公称電圧が1.5 Vであることを考えると、水系でありながらこれを上回る電圧を出したことになる。
| 項目 | 従来の濃淡電池 | 本研究の成果 |
|---|---|---|
| 電圧(濃度差のみ) | 0.059 V以下(1桁濃度差あたり) | 0.6〜0.7 V |
| 電圧の倍率 | 基準 | 従来想定の約12倍 |
| 通常電極と組み合わせた全セル電圧 | 該当なし | 2.2〜2.5 V |
| 比較対象(アルカリ単三) | 1.5 V | 2.2〜2.5 V |
試行錯誤から合理設計へ。残された距離
2つの研究に共通するのは、電池設計を「作って測る」の繰り返しから、AIと物理化学的知見に導かれた合理設計へ移行させるという目標だ。You教授は「これらの電解液研究は同じ大きな目標を共有している。電池設計を試行錯誤から、AI、化学、物理的洞察に導かれた合理設計へ移すことだ」と述べている。
ただし、IonNetが特定した6万3,000件の候補は、いずれも計算上の予測にとどまる。候補材料の合成可能性、空気中や水分に対する安定性、電極材料との界面で生じる副反応、充放電サイクルに伴う体積変化への耐性といった、実用化に直結する課題は未検証だ。65%の的中率も、物理シミュレーションとの照合に基づくものであり、実験室での合成と測定を経た検証はまだない。
濃淡電池の成果についても、0.7 Vという電圧が実用的なエネルギー密度やサイクル寿命と両立するかどうかは、今後の評価を待つ。水系電池の利点である安全性と低コストが、この新しい電解液設計でどこまで維持されるかも未確定である。
計算が示す可能性と、実験が証明する現実の間には、まだ距離がある。その距離を測る作業は、これから始まる。



