一六九九年にGuillaume Amontonsがパリの王立科学アカデミーで報告し、一七八五年にCharles-Augustin de Coulombが実験によって確立した法則がある。乾燥した物体間の摩擦力はすべり速度に依存せず常に一定であるという物理学の基本則であり、現在でも世界中の物理の教科書で教えられている。しかし三百年以上の間、物理学者たちは奇妙なジレンマを抱え続けていた。現実の材料を精密な計測装置で調べるほど、摩擦力はすべり速度に応じてわずかに変化してしまい、教科書通りの理想的な速度不変性は一度も実証されていなかったのだ。物質・材料研究機構(NIMS)、アメリカ地質調査所(USGS)、東京大学からなる共同研究チームは、潤滑材料にも利用される層状酸化物のマイカ(雲母)を200℃まで加熱することで、この三百年来の理想摩擦を初めて実験的に実現したと2026年7月20日に発表した。

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三百年間の物理学が抱えていた速度依存性のジレンマ

古典物理学が教えるAmontons-Coulombの摩擦法則は、機械の設計や建築構造物の計算を支えてきた経験則である。接触面の面積や滑るスピードには一切影響されず、垂直に押し付ける力にのみ比例して摩擦力が決まるという明快さが特徴だ。一六九九年にAmontonsが最初の実験結果を提示し、一七八五年にCoulombが造船所の滑車やソリを用いた実験によって体系化したこの法則は、産業革命期の蒸気機関や単純な歯車機構の力学を設計し説明するには十分な精度を備えていた。

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しかし現代の表面物理学やトライボロジー(摩擦、摩耗、潤滑の科学)が原子間力顕微鏡や高精度なロードセルを用いた微視的な測定を重ねるにつれ、現実の固体面では古典法則が成立しない実態が明らかになった。現実の接触界面においては、摩擦力がすべり速度に対して対数的に変化する「速度状態依存摩擦則」が支配的である。動くスピードが変われば動摩擦係数もわずかに増減するという性質であり、この微小な応答が力学的な不安定性を生み出す主要な要因となる。

従来行われてきた22℃から25℃という室温条件における実験では、100 MPaという非常に高い垂直応力を加えた状態ですべり速度を変化させると、必ず摩擦力の変動が観測されていた。この速度依存性は、例えば自動車のブレーキから生じる音鳴りや精密機械の不快な振動の発生に関与し、さらには地震断層における不安定な滑り挙動をも左右する要素として知られている。速度依存性が完全にゼロとなる材料や条件は物理的に存在しないという見方が半ば常識化する中で、スピードに影響されない完全な一定摩擦を示す状態の実証は、基礎科学と表面工学における長年の未解決課題となっていた。

雲母を二百度に加熱したときに現れる理想すべり

研究チームは、固体潤滑剤として優れたへき開性を示す層状酸化物マイカ(化学式: )の単結晶に着目し、接触面間における動摩擦力の詳細な温度依存性を追跡している。アメリカ地質調査所に設置された高圧岩石力学実験装置を活用して、室温から200℃に及ぶ広い温度域で100 MPaの垂直応力を印加しながらすべり速度を段階的に変化させる精密測定を実施した。その実験成果は2026年7月20日付の米国物理学会誌Physical Review Lettersオンライン版に掲載されている。

実験が示したデータは、従来の熱力学的な直感に反する興味深い物理現象を捉えていた。一般に、物質を高温環境に置くと熱振動が激化し、界面における原子結合の生成や切断が加速するため、摩擦挙動はより不規則で不安定になると予想されやすい。しかしマイカの単結晶間では、温度が22℃から25℃の室温から昇温するにつれてすべり速度変化に対する動摩擦力の応答幅が着実に減衰し、加熱温度が200℃に達した時点で速度への依存性が完全に消失するという力学的な転換が観測されたのだ。

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温度によるマイカ(雲母)の摩擦係数と結晶内部欠陥の変化 室温(左)では接触面下方の結晶内部に「リプロケーション(波状欠陥)」が存在し、すべり速度に応じて摩擦力が変化する。一方、200℃に加熱した状態(右)では内部欠陥が消失し、スピードを変化させても摩擦係数が全く変わらない理想的なAmontons-Coulomb摩擦が実現する。 (Credit: Hiroshi Sakuma et al., Physical Review Letters (2026). DOI: 10.1103/y3jy-nqcd)

古典的な摩擦法則においては、動摩擦力 $F$ と垂直応力 $N$ の関係は動摩擦係数 を用いて以下のように表される。

従来の速度状態依存モデルに基づけば、基準すべり速度 に対して実際のすべり速度 $V$ が変化する際、摩擦係数は対数関数に従って変動する。しかし今回実験で確認された200℃の条件では、速度を変化させた際の摩擦係数変動量 が正確にゼロとなり、すべりスピードをどのように変化させても摩擦抵抗が全く変化しない挙動を呈した。既存の摩擦理論では説明が難しいこの状態が、提唱から300年以上を経て実証されたAmontons-Coulomb摩擦の実像だ。

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電子顕微鏡が捉えた結晶内部の波状欠陥の消失

なぜ層状雲母を200℃まで温めるだけで、これほど明確に摩擦の速度依存性が消え去るのだろうか。研究チームは現象の根底にあるメカニズムを探るため、実験後の単結晶試料を透過型電子顕微鏡(TEM)を用いて精密に観察し、接触面のすぐ下方に広がる結晶構造の微視的な変形状態を解析した。その結果、摩擦の性質を決定づけているのは2つの固体が接する最上位の原子層だけではなく、接触面からやや内側に入った結晶内部の欠陥挙動であることが判明した。

低温である室温環境で摩擦実験を行った試料を断面観察すると、結晶内部に「リプロケーション」と呼ばれる波状のナノスケール欠陥が多数形成されている様相が浮かび上がった。この現象を身近な例で説明するなら、重い家具をカーペットの上で引きずって移動させる際、床とカーペットの接地面ではなくカーペット自体の内部にシワやたわみが波のように発生して前方へと押し進められる状態によく似ている。室温下ではこの波状欠陥がすべり運動に伴って結晶内部を移動し伝播し、欠陥自体の引きずり抵抗がスピードによって敏感に変化するため、巨視的に観測される摩擦力にも速度依存性が表れていたのだ。

一方で、理想摩擦を実証した200℃の加熱試料では、結晶内部のリプロケーション欠陥が完全に消失している事実が確認された。高温環境下で供給された熱エネルギーによって結晶格子の歪みが緩和し、内部に発生していた波状のシワ構造が癒着して消滅した結果、すべり変形は純粋に表面の平滑な界面単独で進行するようになる。室温における欠陥駆動型の複雑なエネルギー消費抵抗から、200℃における欠陥ゼロの界面すべりへと力学的機構が転換したことで、スピードの影響を一切受けない理想摩擦が実現したのであった。

新旧摩擦モデルの対比と固体潤滑材料への波及効果

本研究の成果は、これまで現象論的なパラメータとしてのみ扱われてきた巨視的な摩擦の速度依存性を、結晶内部における微細な構造欠陥の有無という具体的な物性現象と明確に結びつけた点にある。従来の室温環境で観測されてきた動摩擦の特性と、今回実験的に実証された高温下における理想摩擦の差異は、以下の対比表として整理できる。

比較項目 室温での動摩擦(22℃〜25℃) 高温での理想摩擦(200℃)
すべり速度依存性 速度に応じて摩擦係数が対数的に変化する 速度を変化させても摩擦係数は不変(完全独立)
支配的な微視的機構 結晶内部の波状欠陥「リプロケーション」の伝播 内部欠陥の消失による純粋な界面単独すべり
力学的な安定性 速度変動に伴う振動やスティックスリップ摩耗が発生 速度変動に対して安定しエネルギー損失を最小化

この基礎科学における発見は、未来の機械工学およびエネルギー効率の向上に向けて重要な応用価値をもたらす。現代の自動車や航空宇宙工学では脱炭素社会の実現に向けたエネルギー損失の削減が求められており、摩擦ロスをわずかでも低減させる素材設計は産業界全体の急務となっている。特に宇宙探査機の展開アンテナや高真空半導体製造装置、さらには発電用高温タービンなどの極限環境では、通常の液体潤滑油が蒸発や凍結によって機能しないため、マイカやグラファイトのような固体潤滑材料の性能が機械の寿命を左右する。もし潤滑剤の摩擦力が稼働時のスピード変化に伴って増減すると、機械の内部にスティックスリップと呼ばれる不快な自励振動が生じ、部品の急激な摩耗や駆動エネルギーの損失を引き起こすこととなる。

いかなるスピードで動作させても摩擦抵抗が不変である理想的な固体潤滑剤を開発できれば、機械システムの制御性は安定化し、動力伝達に伴うエネルギーロスを最小限に抑え込むことが可能となる。研究チームは、結晶内部のナノスケール欠陥を熱や構造制御によって排除できれば、巨視的な摩擦の物理法則を人間が意図した通りにデザインできるという、新たな材料開発の指針を提示した。

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異なる層状材料への展開と極限環境が突きつける未検証の課題

マイカにおいて三百年来の謎であった理想的なAmontons-Coulomb摩擦が実証されたことは大きなブレイクスルーだが、この欠陥消失による理想すべりの機構が他の材料系においても普遍的に成立するかどうかは今後の検証に委ねられている。固体潤滑剤として産業界で幅広く利用されているグラファイト(黒鉛)や二硫化モリブデン、二酸化チタンといった他の層状化合物においても、200℃程度の加熱によって結晶内部のリプロケーション欠陥が消滅し、速度依存性のない理想摩擦が出現するのかは現時点では未検証の問いである。

さらに、実際の工業用機械や地球内部の地殻変動のような複雑な物理環境を想定した場合、解明しなければならない技術的な課題は依然として残されている。本研究では100 MPaの垂直応力と200℃という設定条件のもとで欠陥の消失を確認したが、300℃を超えるより過酷な高温領域においてマイカの脱水結合や化学反応がどのように進み、摩擦特性をどう変化させるかは未確認である。また、産業用機械で求められる数億回から数十億回に及ぶ長時間の連続すべりサイクルの中で、結晶欠陥の消失状態がどの程度安定して維持されるのかという耐久性や寿命の検証もこれからの課題と言える。

研究チームは今後の展望として、電子顕微鏡の内部で直接摩擦実験を実施するその場観察技術を活用し、すべり運動中に結晶欠陥がどのように発生し消滅するのかをリアルタイムで追跡する実験を進める方針を示している。三世紀前に王立アカデミーで生まれ、教科書の中にだけ存在していた古典的な摩擦法則が、最先端のナノスケール欠陥解析と結びついたことで、表面物理学とトライボロジーの挑戦は新たな扉を開きつつある。