経営再建の荒波にもがく日産自動車が、生き残りをかけて「禁断の一手」を打つ可能性が浮上した。台湾の巨大ハイテク企業、鴻海精密工業(以下、鴻海)と電気自動車(EV)の共同生産に向けた協議を開始したと、2025年7月6日に日本経済新聞が報じたのだ。その舞台は、閉鎖の瀬戸際に立たされた神奈川県横須賀市の追浜工場。この動きは、日本の自動車産業が長年固守してきた「垂直統合」モデルが、iPhoneを生み出した「水平分業」モデルに門戸を開く、歴史的な転換点となる可能性を秘めた大きな動きの始まりとなるかもしれない。
崖っぷちの日産、栄光の象徴「追浜」が背負う苦悩
今回の協議の核心を理解するには、まず追浜工場が日産、ひいては日本の自動車産業にとってどのような存在であるかを知る必要がある。1961年に操業を開始した日産自動車追浜工場は、日本初の大規模自動車工場の一つであり、戦後日本のモータリゼーションを牽引し、日産が世界へと飛躍する原動力となったまさに「栄光の象徴」だ。さらに特筆すべきは、2010年に世界初の量産型EVである「リーフ」の生産拠点となったことだろう。追浜は、日産の過去の栄光と未来への希望を同時に体現する場所だったのだ。
しかし、その栄光は今、風前の灯火となっている。日産は米国や中国市場での販売不振、そして膨れ上がった債務に苦しみ、2025年3月期には最大で7,500億円もの純損失を計上する見込みだ。この未曾有の危機を乗り切るため、同社は全世界で17ある完成車工場のうち10工場への削減という、痛みを伴うリストラ計画を発表。その中で、追浜工場は閉鎖・統合の有力候補とされてきた。
その理由は数字に表れている。調査会社MarkLinesによれば、追浜工場の2024年の稼働率は、損益分岐点とされる80%を大きく下回るわずか40%。年間24万台の生産能力を持つ巨大工場が、その能力の半分も満たせないでいる。この遊休資産が経営の重荷となっているのは明らかだ。
だが、閉鎖は容易な決断ではない。追浜工場には約3,900人もの従業員がおり、その家族の生活もかかっている。工場周辺には日産系列の部品サプライヤーが数多く集積しており、閉鎖はサプライチェーンを寸断し、横須賀市、ひいては神奈川県の地域経済に計り知れない打撃を与える。神奈川県知事が「雇用と経済に大きな影響を与える」と強い懸念を表明するのも当然だろう。栄光の象徴は今、日産の苦悩の象徴へと姿を変えてしまったのである。
「自動車界のApple」を狙う鴻海の野心と周到な戦略
一方、日産に救いの手を差し伸べる形となった鴻海精密工業は、どのような企業なのか。AppleのiPhone受託生産で世界最大のEMS(電子機器受託製造サービス)企業となった彼らだが、一般には余り知られていないを知らないのもまた確かだ。日産の立て直しの一件で、Hondaとの合併と共に報じられたのが鴻海による提携だった(どちらも頓挫してしまったが)その鴻海が次に狙うのが、自動車産業だ。彼らは2019年にEV市場への参入を表明し、「自動車界のApple」となるべく、周到に戦略を進めてきた。
その戦略の核となるのが「CDMS(Commissioned Design and Manufacturing Services:委託設計・製造サービス)」と呼ばれるビジネスモデルだ。これは、EVの「頭脳」となるソフトウェアやブランドは顧客企業が担当し、鴻海は車台(プラットフォーム)から部品調達、組み立てまでを一手に引き受けるというもの。いわば、自動車のiPhoneモデルである。この水平分業モデルにより、新規参入企業は莫大な初期投資なしにEV市場に参入でき、既存メーカーは開発・生産コストを劇的に削減できると鴻海は謳う。
鴻海にとって、今回の協議はまさに戦略のど真ん中を行く一手だ。
- 製造拠点の確保: EV生産には巨大な工場が必要だが、新設には時間とコストがかかる。日産の追浜工場は、テストコースや専用埠頭まで備えた、喉から手が出るほど魅力的な既存資産だ。
- ノウハウの獲得: iPhoneと自動車では、求められる品質や安全基準、サプライチェーン管理の複雑さが全く異なる。日本のトップメーカーである日産の工場で生産を行うことで、鴻海は短期間で「自動車づくりの作法」を吸収できる。
- 日本市場への足がかり: 鴻海はすでに三菱自動車との間でEV供給に関する覚書を交わしており、着々と日本市場への布石を打っている。日産との提携が実現すれば、その存在感は一気に高まるだろう。
彼らの狙いは単なる下請けではない。EVのプラットフォームという「OS」部分を握ることで、自動車産業の新たな支配者になろうという壮大な野望が透けて見える。
「ウィン・ウィン」の裏に潜むリスクと日本の葛藤
この提携は、表面的には日産と鴻海双方にとって「ウィン・ウィン」に見える。日産は追浜工場を閉鎖せずに済み、雇用とサプライチェーンを守り、遊休資産を有効活用できる。一方の鴻海は、日本国内に理想的な生産拠点を確保し、EV事業を一気に加速させることが可能だ。アナリストの一部は、このCDMSモデルによって生産コストが15〜20%削減され、提携が成功すれば日産の株価も再評価される可能性があると指摘する。
しかし、この甘い果実には鋭い棘が隠されている可能性も否定できない。いくつかの重大なリスクが存在する事を忘れてはならないだろう。
第一に、技術流出と主導権の問題だ。日経新聞の報道によれば、日本政府関係者はこの動きに警戒感を抱いているという。日産が長年培ってきた高品質なものづくりのノウハウ、いわば「匠の技」が、世界最大の受託製造企業である鴻海に渡ることの意味は大きい。最初は日産の余剰ラインを借りる形でも、いずれ生産の主導権が鴻海に移り、日産が単なる「工場の大家」に成り下がる可能性は否定できない。これは対等なパートナーシップなのか、それとも巧妙な乗っ取りの序章なのか、慎重に見極める必要がある。
第二に、ブランド価値の毀損だ。同じ工場、同じ生産ラインから、歴史ある日産ブランドの車と、新興の鴻海ブランドの車が生まれる。これは消費者に混乱を与え、長期的には日産のブランド価値を希薄化させるリスクをはらむ。
そして第三に、実行の不確実性だ。Reutersの報道に対し、日産は「当社が発表した情報に基づくものではない」とコメントしており、交渉はまだ流動的だ。文化もビジネスモデルも全く異なる両社が、複雑な利害を調整し、最終合意に至るまでの道のりは平坦ではないだろう。
自動車産業の未来を占う「水平分業」は日本に根付くか
今回の協議が投げかける最も根源的な問いは、「自動車産業のビジネスモデルはどこへ向かうのか」という点に尽きる。
これまで100年以上にわたり、自動車産業はエンジン開発から設計、製造、販売までを自社グループ内で完結させる「垂直統合」モデルを強さの源泉としてきた。特に日本のメーカーはその典型であり、系列サプライヤーとの強固な「すり合わせ」技術が、高品質と競争力を生み出してきた。
しかし、EVとソフトウェアが主役となる時代は、その常識を根底から覆そうとしている。スマホ業界では、Appleが設計とOSに特化し、製造を鴻海のような企業に委託する「水平分業」モデルが主流となった。自動車においても、BYDのような垂直統合を極める企業がいる一方で、Google(Waymo)やApple、そしてFoxconnのように、水平分業を仕掛けるプレイヤーが次々と現れている。
日産と鴻海の提携は、この水平分業モデルが、ものづくりの牙城であった日本に本格的に上陸する号砲となるかもしれない。もしこの試みが成功すれば、他の国内メーカーも追随し、日本の自動車産業の構造は不可逆的に変化するだろう。それは、開発力やブランド力を持つ企業と、生産に特化した企業へと業界が再編されていく未来だ。
日産が下そうとしている決断は、単なる一工場の運命を決めるだけではない。それは、日本のものづくりが守り続けてきた「垂直統合」のプライドと、時代の変化が突きつける「水平分業」の合理性の間で、どちらの未来を選択するのかという重い問いを、我々すべてに投げかけている。その答えが、日本の自動車産業、ひいては日本の製造業全体の未来の姿を映し出すことになるだろう。
Sources
- 日本経済新聞:日産、鴻海とEV生産を協議 神奈川の追浜工場存続へ