サウジアラビアのムハンマド・ビン・サルマン皇太子(MBS)が主導する巨大都市構想「NEOM」が、重大な岐路に立たされている。かつて「人類史上最大の建築物」として世界を驚愕させた直線都市「The Line」は、当初の壮大なビジョンから大幅に後退し、その姿を劇的に変えようとしている。

Financial Timesが報じた最新情報によると、このプロジェクトは現在、建設遅延やコスト超過、そして原油価格の低迷という複合的な圧力の下、「居住のためのSF都市」から「産業用AIデータセンターのハブ」へと、その存在意義を根本から再定義しつつあるようだ。

本稿では、NEOM縮小の背後にある経済的・技術的な構造変化を分析し、なぜサウジアラビアが「世界最大の建設現場」を「シリコンの要塞」へと作り変えようとしているのかを見ていきたい。

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夢想から実利へ:「The Line」の劇的な縮小と再設計

2024年の発表当初、NEOMの中核を成す「The Line」は、紅海沿岸から砂漠を貫く全長170km、高さ500m、幅200mという、常識を覆す鏡面壁の直線都市として構想されていた。自動車ゼロ、道路ゼロ、100%再生可能エネルギーで稼働し、2045年までに900万人が居住するというその計画は、MBSによる「Vision 2030」の象徴だった。

しかし、2026年初頭現在、そのビジョンは物理的・経済的な限界に直面している。

170kmの分断と「モジュラー化」への移行

Financial Timesの報道によれば、現在進行中の内部レビューにおいて、「The Line」のマスタープランは「大幅に縮小(significantly downscaled)」される方向で調整が進んでいるようだ。かつてMBSが「都市デザインの革命」と呼んだ170kmの連続体は放棄され、すでにインフラが整備されている区画を活用した、より現実的かつ小規模なモジュール型の開発へと移行すると見られている。

これはシステム全体が「理想」から「現実的な運用」へとカ舵を切ったことを意味する。関係者は「システムが目標を調整する能力を持っていることの表れ」と述べているが、実態は無謀な計画に対する不可逆的な修正と言えるだろう。

2029年冬季アジア大会会場「Trojena」の誤算

NEOMの構成要素である山岳リゾート「Trojena」もまた、計画の見直しを余儀なくされた。2029年の冬季アジア大会開催地として選定されていたにもかかわらず、当局は同地での開催を断念することを確認している。

砂漠の真ん中でスキーリゾートを運営し、国際大会を開くという計画は、技術的な実現可能性への疑義が常に付きまとっていた。この開催返上は、NEOMプロジェクト全体が「納期」と「予算」の現実的な管理下に置かれ始めた決定的な証拠と言えるだろう。

「AI要塞」へのピボット:紅海が握るデータセンターの勝算

「The Line」の縮小報道の中で、テクノロジー業界にとって最も注目すべきニュースは、NEOMの新たな役割として「AIデータセンターの世界的ハブ」という構想が浮上している点だ。これは単なる苦肉の策ではなく、地理的・物理的な合理性に基づいた戦略的転換と言える。

冷却問題の解決策としての「紅海」

現在の生成AIブームを支えるデータセンターは、膨大な熱処理という課題を抱えている。世界で稼働する約8,800のデータセンターのうち、約7,000は気候的に非効率な(冷却コストがかさむ)地域に建設されているのが現状だ。高温乾燥のサウジアラビアは、本来であればデータセンターにとって過酷な環境だ。

しかし、NEOMが位置する紅海沿岸は、この問題を解決する鍵を持っている。「海水冷却(Seawater Cooling)」の活用だ。
大規模なパイプラインを通じて深層の海水を取り込み、サーバーファームの冷却に利用することで、空冷システムに比べて電力消費を劇的に削減できる。NEOM当局者は、プロジェクトを「人工知能とデジタルイノベーションのハブ」として再配置しており、海岸に近い立地は大規模なデータ演算施設にとって理想的な条件となりえる。

Nvidia製チップの大量確保と国家戦略

サウジアラビアはすでに、AI覇権に向けた具体的な布石を打っている。2025年5月には、NVIDIAから18,000基のH100/BlackwellクラスのAI GPUを確保したと報じられた。

「The Line」が居住空間としての魅力を失う一方で、そこは「人間が住む場所」ではなく「AIが住む場所」へと変貌しようとしている。巨大な鏡面の壁の中に並ぶのは、未来の市民ではなく、無数のサーバーラックとなる可能性があるのだ。これは、MBSが目指す「脱石油依存」の経済多角化において、データそのものを新たな「石油」と見なす動きと合致する。

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崩れた財務方程式:原油価格と優先順位の競合

NEOMの縮小は、サウジアラビアを取り巻くマクロ経済環境の変化と密接に連動している。

原油価格60ドル台の衝撃と流動性の枯渇

生地執筆時点で、ブレント原油価格は1バレルあたり60ドル強で推移しており、サウジアラビアの国家財政に重くのしかかっている。かつてのような潤沢なオイルマネーを前提とした「無尽蔵の財布」は、もはや存在しない。

公的投資基金(PIF)は、NEOMのオーナーとして巨額の資金を注入してきたが、現在は「目に見えるリターン」を早期に生み出すよう強い圧力を受けている。当初5,000億ドルとされたNEOMの総工費は、インフレと資材高騰により、一部の試算では1.5兆ドル、あるいは9兆ドル近くまで膨れ上がるとも噂されている。流動性が逼迫する中で、このような不確実な支出を続けることは不可能だ。

迫りくる「絶対的な納期」:Expo 2030とW杯2034

リヤド政府にとってさらに頭の痛い問題は、NEOM以外にも国家の威信をかけた巨大イベントが控えていることだ。

  1. 2030年 リヤド国際博覧会(Expo 2030)
  2. 2034年 FIFAワールドカップ

これらは開催日が決まっている「絶対的な納期」を持つプロジェクトである。NEOMのような実験的な未来都市とは異なり、遅延は国際的な信用失墜に直結する。資金と建設リソースが有限である以上、政府は優先順位を付けざるを得ない。結果として、より具体的で短期的な成果が求められるリヤドのインフラ整備やスタジアム建設に資金が集中し、NEOMは「後回し」または「縮小」の対象となったのだ。

テクノクラートへの権限移譲とリーダーシップの刷新

この戦略転換を象徴する出来事が、NEOMのトップ人事だ。2024年11月、長年CEOを務めたナドミ・アル・ナスル(Nadhmi Al-Nasr)氏が突如退任し、アイマン・アル・ムダイファー(Aiman Al-Mudaifer)氏が後任として実権を握った。

アル・ムダイファー氏は、就任直後からプロジェクトの優先順位に関する包括的なレビューを開始した。彼の役割は、MBSの「夢」をそのまま語ることではなく、経済的合理性に基づいた「外科手術」を行うことだ。
「公共の利益がそれを必要とするならば、いかなるプログラムや目標であっても、キャンセルや抜本的な修正を躊躇しない」というMBS自身の言葉(昨年9月の諮問評議会での演説)は、この路線変更に対する政治的なお墨付きを与えている。

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砂上の楼閣か、次世代の産業基盤か

NEOMの縮小は、一見すると「Vision 2030」の失敗のように映るかもしれない。しかし、より冷徹な視点で見れば、これはサウジアラビアが「SF的なプロパガンダ」の段階を終え、グローバル経済の中での実利的な生存戦略へと移行したことを意味する。

170kmの摩天楼に900万人を住まわせるという計画は、当初から物理的にも社会的にも破綻していた。しかし、その広大な土地と資金、そしてエネルギーインフラを、世界的に不足している「AI計算資源」の供給基地へと転用できるならば、NEOMは全く別の形で成功を収める可能性がある。

「The Line」は、人間が住むユートピアにはなれないかもしれない。しかし、紅海の冷たい海水を取り込み、世界中のAIモデルを学習させる巨大な「マシンの心臓部」として、その特異な形状を砂漠に残すことになるだろう。夢想の終わりは、必ずしもプロジェクトの死を意味しない。それは、より冷徹で、より計算高いビジネスの始まりなのだ。


Sources