日本の読者にとって、トリチウムと聞いてまず思い浮かぶのは福島第一原発の処理水だろう。海洋放出の是非を巡って長らく議論されてきたこの放射性物質が、太平洋の向こう側では衛星の電源として宇宙へ運ばれた。2026年7月7日午前3時10分(米東部時間)、マイアミ拠点のCity Labs社が開発した衛星「BOHR」がSpaceXのFalcon 9ロケットでヴァンデンバーグ宇宙軍基地から打ち上げられたという。搭載されているのは核分裂炉ではなく、トリチウムが自然に崩壊するエネルギーを電力へ変える「NanoTritium」という電池だ。この打ち上げは、米国と中国の間で始まった核電池開発競争の号砲でもある。

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核分裂炉ではない。トリチウムの崩壊がそのまま電気になる仕組み

BOHRという名称は「Betavoltaic Orbital High-Reliability(ベータボルタイック軌道高信頼性)」の略とされる。原子力と聞くと核分裂炉を思い浮かべやすいが、BOHRが搭載するNanoTritium電池の発電原理はまったく別のものだ。核分裂炉はウランなどの原子核を人為的に分裂させ、その連鎖反応で発生する熱を電力に変換する。NanoTritiumはトリチウム(三重水素)が自然に崩壊する際に放出するベータ線(電子)を、半導体で直接電流として取り出す。

具体的には、放出されたベータ線が半導体のpn接合に飛び込んで電子と正孔の対をつくり、その対がpn接合内部の電界で分離されることで外部回路に電流が流れる。太陽電池が光子でこの反応を起こすのに対し、NanoTritiumはベータ粒子がその役割を担う。仕組みの骨格は同じでも、エネルギー源が太陽光か放射性崩壊かで昼夜や太陽光の有無に左右されるかどうかが変わる。

この方式には可動部品も液体電解質も存在しない。City Labsの技術資料によれば、可動部品や液体電解質がないことで火災リスクがゼロになり、長期間にわたって安定した発電を続けられるという。故障点が少ないという特性は、宇宙空間で修理ができない衛星にとって大きな利点になる。実際、BOHRに搭載されたトリチウムペイロードは約10年間軌道上に留まる想定だという。ただし性能を確認できる試験結果自体は、打ち上げ後数週間から数カ月で得られる見込みだという。

6年越しで動いた宇宙核政策、FAAが下した初の商業認可

Trump政権は2019年8月20日、宇宙核システムを搭載する打ち上げの認可権限を運輸長官(実務はFAAが担当)に与える「国家安全保障大統領覚書20号(NSPM-20)」を発令した。この枠組みのもとでFAAがBOHRに商業宇宙ミッションとして初めてペイロード認可を発行したと伝えられており、認可日は2025年9月30日だという。この認可日はフロリダ地元紙系の報道に基づくもので、複数の独立した情報源による裏付けは得られていない。NSPM-20発令から6年を経て、ようやく最初の商業案件が実際の打ち上げまでたどり着いた計算になる。

安全性解析はCity Labsが担い、Sandia National Laboratoriesが独立検証をしたとされる。ただしこの情報も同じ報道系列に依拠しており、独自の続報は確認できていない。City Labs社CEOのPeter Cabauy氏は地元紙の取材に対し「これが世界初の商用核打ち上げになる」と述べた。今回の認可が実際の打ち上げまで結びついたことで、NSPM-20は書類上の枠組みから運用実績のある規制手続きへと段階を進めたことになる。

NSPM-20が実際の商業ミッションで運用された今回の事例は、他の企業にとっても参照可能な先例になる。認可の枠組みが一度動いた以上、同様の宇宙核ペイロードを計画する企業はゼロから規制対応の道筋を組み立てる必要がなくなる。米国が実務手続きをこの分野で一足先に整えたことは、後述する中国Betavoltとの核電池競争で、どちらが先に商業化の実績を積み上げるかを左右する規制上の地ならしになる。

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トリチウム対ニッケル63、米中で分かれた核電池の同位体選択

ベータボルタイック電池の実用化を進めているのは、City Labsに限らない。中国のBetavolt社は2021年の設立以来、ニッケル63を使ったベータボルタイック電池「BV100」を商用化しており、出力100マイクロワット、寿命50年というスペックを公表している。同社は2025年に1ワット版の発売を計画していると発表していた。City LabsのNanoTritiumがトリチウムを使うのに対し、Betavoltは放射性同位体ニッケル63を使う。同じベータボルタイック方式でも、同位体の選び方によって開発の系譜が米中で分かれた形だ。

City Labsは米原子力規制委員会(NRC)から商用トリチウムベータボルタイック電池の製造・販売に関する一般ライセンスを保有する唯一の米企業だと業界専門メディアが伝えている。ただしこの裏付けは当該メディア1件にとどまる。規制面でも米中で明暗が分かれた形だ。City Labsは「世界初」のブランディングを手にDARPA(国防高等研究計画局)やNASA、空軍研究所との契約獲得に弾みをつける立場にあり、検証を担ったSandia National Laboratoriesも技術的な実績を積む形になる。

SpaceXやExolaunchのようなライドシェア型打ち上げ事業者にとっても、小型核電源衛星という新しい需要の芽になる。一方でBetavoltら先行する中国勢は「初の商業FAA認可」という記録を米国側に取られた形になり、対外的な優位性の物差しを一つ失う。プルトニウム系のRTGサプライチェーンも、低コストな代替技術の台頭によって相対的に立場が弱くなる。開発競争の号砲が鳴ったのは、衛星が飛んだ瞬間よりも規制の実績という記録が更新された瞬間だったとも言える。

ボイジャーを支えたRTGとの違いが、核動力衛星の勝算を左右する

核を電源に使う発想自体は目新しくない。NASAの探査機ボイジャーをはじめ、深宇宙探査機は数十年にわたって放射性同位体熱電気転換器(RTG)を電源として使ってきた。RTGはプルトニウム238の崩壊熱を熱電変換素子で電気に変える方式で、太陽光が届かない深宇宙でも安定した出力を得られる利点がある。ただしプルトニウム238は生産量が限られる希少な燃料であり、RTGの製造コストは高止まりしてきた。ベータボルタイック方式は、この高コスト構造に対する小型で安価な代替として位置づけられる。

City Labsは2024年、NASAの先進コンセプト研究制度(NIAC)に採択され、月の永久影クレーターで水や揮発性物質を検出するセンサーへのトリチウム電池応用を提案している。月の永久影クレーターには太陽光が届かず、通常の太陽電池は使えない。この延長線上で、BOHRはNASAのArtemis計画で太陽光に依存しない月面電源の実証を担うパスファインダーと位置づけられているという報道もある。ただしこれは単一の記事による情報で、NASA側の公式な言及は確認できていない。

仮にこの位置づけが正しければ、ベータボルタイック電池はRTGが担ってきた深宇宙探査機の電源という役割の一部を、より安価な形で引き継ぐ可能性が出てくる。長寿命衛星や月面探査機にとって、燃料調達の制約が小さい電源技術の存在は選択肢を広げる材料になる。太陽光の有無に左右されない電源の選択肢が増えれば、探査機の設計そのものを見直す余地も生まれる。

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NanoTritiumの出力ワット数が、最初の答え合わせになる

City Labsの技術資料はNanoTritiumの出力について「非常に低出力」としか説明しておらず、具体的なワット数は公表されていない。同社はDARPAの「Rads to Watts」プログラムからMicrolink Devicesと共同で150万ドル(約2億4300万円、1ドル=161.87円換算)の契約を獲得し、将来的にワット級の放射性核種発電セルの開発を目指しているが、これはBOHR搭載機とは別枠の研究契約だ。BOHRの実際の出力がこの目標値にどこまで近いのかは、現時点で判断できる材料がない。

BOHRはSpaceXのFalcon 9ロケットによるTransporter-17相乗りミッションで、81基のペイロードとともに打ち上げられたとされるが、SpaceX公式のペイロード一覧にCity LabsやBOHRの名前は明記されていない。報道の出所はフロリダ地元紙の記事とその転載にほぼ限られており、独立した複数の情報源による裏付けは今のところ得られていない。軌道上の性能を確認できる試験結果は打ち上げ後数週間から数カ月で出てくる見込みだといい、実際の出力ワット数や商用化の価格、量産時期といった数字が明らかになるのはそこから先になる。BOHRが本当に軌道に乗ったのか、乗ったとして何ワットを生み出すのか、この2点が今後最初に埋まる空白になる。

処理水論争でトリチウムの拡散を懸念してきた日本の読者にとって、同じ物質が電源として意図的に軌道へ打ち上げられた事実は、ある種の皮肉として映る。ただしBOHRに搭載されたトリチウムの量そのものは公表されておらず、処理水を巡る大量の放射性物質の管理問題とは前提が異なる可能性が高い。号砲が鳴ったことは確かでも、勝敗を決めるのはこの先数カ月で判明する出力の実測値だ。