米国の大手会員制倉庫型卸売りCostco(コストコ)のPC売り場で、異様な光景が広がっている。ゲーミングPCの展示機が煌びやかなRGBライティングで点灯しているにもかかわらず、サイドパネルの中を覗くと、そこにあるべき主要パーツ――RAM(メモリ)とGPU(グラフィックボード)――が根こそぎ抜き取られているのだ。
これは店舗側のミスではない。昨今のAIブームに伴う半導体価格の高騰、とりわけDDR5メモリの価格がわずか数ヶ月で2〜3倍に跳ね上がったことを受け、一般客や窃盗団による「パーツ狩り」が横行しているためだ。会員制という「信頼の壁」すら乗り越える大胆な犯行の手口と、その背景にあるPCパーツ市場の深刻なインフレ、そして消費者が直面する新たな現実とは。
「ゾンビPC」化する展示機:会員制店舗で何が起きているのか
コストコのPCコーナーを訪れた買い物客は、奇妙な違和感に襲われることになる。展示されているデスクトップPCは電源が入り、ファンが回転し、LEDが鮮やかに明滅している。しかし、強化ガラスのサイドパネル越しに内部を確認すると、マザーボード上のDIMMスロット(メモリスロット)は空っぽで、PCIeスロットにあるはずの重厚なグラフィックボードも見当たらない。まるで魂を抜かれた「ゾンビ」のような状態だ。
強化ガラスを開ける「デモ」を行う窃盗犯たち
複数の現地報道およびRedditなどのコミュニティからの報告によると、この措置は盗難防止のための苦肉の策である。コストコの展示機は、本来、製品の性能や美観をアピールするために設置されているが、その「アクセスのしやすさ」が仇となった。
Costco removing RAM from display units.
byu/accent2012 inpcmasterrace
多くのゲーミングPCケースは、ツールレス(工具不要)でサイドパネルを開閉できる設計になっている。窃盗犯たちは、店員の目が届かない一瞬の隙を突き、強化ガラスを開け、マザーボードからRAMを引き抜き、ポケットに入れて持ち去る。ある報告では、Instacart(買い物代行サービス)のスタッフまでもが、業務中にこの「早業」を行っていたとされる。Instacartのショッパーは会員カードを保持していなくても入店できるケースがあり、会員制というセキュリティフィルターが機能不全に陥っている実態が浮き彫りになった。
なぜPC全体ではなく「メモリ」なのか
かつての万引きといえば、パッケージごと商品を盗むのが一般的だった。しかし、現在のトレンドは明らかに異なっている。犯人たちが狙うのは、筐体そのものではなく、内部の「臓器」だ。
これには明確な理由がある。近年の高性能DDR5メモリやハイエンドGPUは、小型でありながら極めて単価が高い。特にDDR5メモリは、スティック状でポケットに容易に隠すことができ、防犯タグなどをすり抜けることも難しくない。それでいて、二次流通市場(転売市場)では新品に近い価格で即座に現金化できる。HotHardwareの記事が指摘するように、現代のDDR5メモリは、かつて自動車から頻繁に盗まれた「触媒コンバーター」のデジタル版と化しているのだ。
市場の構造的歪み:AI需要が招いた「RAMパニック」
この盗難騒ぎの根本原因は、単なるモラルの低下ではない。背後には、急速に過熱した生成AIブームと、それに伴う半導体需給の逼迫というマクロ経済的な要因が存在する。
3倍に高騰したDDR5価格
2025年半ば以降、PCパーツ市場、特にメモリ市場は異常なインフレに見舞われている。一般消費者向けのDDR5メモリモジュールの価格は、わずか数ヶ月の間に2倍、製品によっては3倍から4倍にまで跳ね上がった。
この価格高騰の主犯は「AI」だ。ChatGPTやGoogle Geminiなどの大規模言語モデル(LLM)を駆動するデータセンターでは、膨大な量の高速メモリが必要とされる。Samsung、SK hynix、Micronといった主要メモリベンダーは、生産能力の大部分を、AIチップ(GPU)に同梱される高帯域幅メモリ(HBM)やサーバー向けDRAMに振り向けている。
結果として、一般消費者向け(クライアントPC向け)のDDR5メモリの供給が絞られ、需給バランスが崩壊した。32GBや64GBの大容量キットは今や「贅沢品」となり、店頭に並ぶ無防備な展示機は、数百ドルの現金が置いてあるのと同義になってしまったのだ。
GPU不足の再来と複合的な欠乏
メモリだけではない。GPU(グラフィックボード)もまた、依然として高値で取引されている。かつての暗号資産マイニングブームの時と同様、あるいはそれ以上に、AI処理能力を持つハードウェアへの渇望は強い。コストコの展示機からGPUまで抜き取られているという事実は、パーツ単位での転売価値が依然として極めて高い水準にあることを示している。
小売店の苦悩と変化する販売形態
コストコやウォルマートといった量販店は、この事態に対して「物理的な隔離」という前時代的かつ確実な対抗策を講じざるを得なくなっている。
「スペック表と想像力」で選ぶ時代へ
これまで、PC売り場の魅力は、実機を見て、触って、そのパフォーマンスを体感できることにあった。しかし、メモリとGPUが抜かれた展示機では、本来の体験は不可能だ。消費者は、空っぽのスロットが並ぶマザーボードと、段ボールに印刷されたスペック表を見比べながら、実際の性能を「想像」して購入を決断しなければならない。
さらに、購入後のプロセスも不透明になりつつある。レジで購入手続きをした後、店員がバックヤードからパーツを持ってきてその場で取り付けるのか、あるいはパーツを別添えで渡され、ユーザー自身が自宅で取り付けるのか。後者の場合、PC初心者が高価なパーツを破損させるリスクも生じる。これは「手軽に高性能なPCが手に入る」というBTOや完成品PCのメリットを損なう事態だ。
ウォルマートなど他店舗への波及
専門家は、この「RAM抜き取り対策」がコストコ以外の大手量販店にも波及すると予測している。ターゲットやウォルマートでも同様の被害が報告され始めており、高価なPCパーツは、店頭の棚から消え、鍵のかかったガラスケースやカウンターの奥へと追いやられている。かつて鮮魚売り場で「時価」と表示されていた高級魚のように、メモリ製品の価格表示が不安定になり、購入のハードルは物理的にも心理的にも高まっている。
「自作」から「完成品」へ:逆転するコストパフォーマンス
この混乱の中で、PC購入の常識に興味深い逆転現象が起きている。長年、PC愛好家の間では「完成品PCを買うよりも、パーツを個別に買って自作した方が安い」というのが定説だった。しかし、現在の市場環境はそれを否定している。
B2B契約の強みが生む価格差
価格動向を見てみると、HP、Dell、Lenovoのような大手システムインテグレーターが販売する完成品PC(プレビルド機)の方が、同等のパーツを個別に買い揃えるよりも安価になるケースが増えている。
これは「規模の経済」と「長期契約」の力だ。大手メーカーはメモリベンダーやGPUメーカーと大口の長期供給契約(B2B契約)を結んでおり、市場価格の短期的な変動の影響を受けにくい。一方、個人がパーツショップで購入する場合、AI需要によるスポット価格の高騰をダイレクトに被ることになる。
例えば、RTX 5070 Tiと32GBメモリを搭載したPCを自作しようとすると、パーツ単体の合計金額が、同スペックの完成品PC価格を500ドル近く上回るという試算もある。皮肉なことに、展示機からパーツが盗まれるような状況下において、最も賢い防衛策は「パーツ単体を買わないこと」になりつつある。
ハードウェア・セキュリティの再考
今回のコストコでの一件は、単なる万引き事件として片付けることはできない。これは、デジタルハードウェアの価値が貴金属並みに高騰した結果、従来の小売モデルが通用しなくなったことを意味する。
サプライチェーンの逼迫は2026年も継続か
メモリベンダー各社からの情報や市場予測を総合すると、このDRAMおよびSSDの供給不足は2026年を通じて続く可能性が高い。AIインフラへの投資熱が冷めない限り、一般消費者向けメモリの生産ラインが劇的に増強される見込みは薄いからだ。
パッケージングと展示の進化
今後、PCメーカーや小売店は、展示方法の根本的な見直しを迫られるだろう。例えば、展示機専用にダミーのモジュールを使用する、あるいはケースのサイドパネルに特殊なロック機構を設けるといった対策が必要になるかもしれない。また、消費者にとっては、購入したPCの箱を開けた瞬間に「パーツが入っているか」を確認することが、これまで以上に重要な儀式となる。
「会員証があれば安心」という神話は崩れた。我々は今、PCパーツが金やプラチナと同じように厳重に管理されるべき資産となった、新しい時代の入り口に立っている。
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