自然科学研究機構 分子科学研究所(分子研)は2026年8月24日、日本初のフルスタック中性原子量子コンピュータ「春海(しゅんかい)」が稼働を始めたと発表した。初期段階で使う量子ビットは約50個である。数字だけなら国内最大ではない。それでも今回が節目になるのは、利用者が計算を入力するソフトウェアから、原子を並べて演算し、結果を読み出す量子処理ユニット(QPU)までを一つのシステムとして動かしたためだ。
春海は、内閣府と科学技術振興機構(JST)のムーンショット型研究開発事業で分子研の大森賢治教授が率いるチームが開発した。名称は、日本独自の暦法を作った江戸時代の天文学者、渋川春海に由来する。第1期に積み上げたQPUやレーザー、制御技術を統合し、2026年4月に始まった第2期で誤り訂正と外部利用へ進むための実験台が整った。
50量子ビットより重要な「フルスタック」
春海は、ソフトウェアから古典制御、量子制御を経てQPUまでの4層で構成される。利用者が量子アプリケーションからジョブを投入すると、校正ソフトとジョブ実行系が命令を処理し、古典制御系がQPUを動かす信号へ変換する。分子研は全体を主導し、日立製作所がソフトウェアスタック、米InfleqtionがQPUスタックを分子研と共同開発した。
QPUでは、対物レンズでレーザーを絞った「光ピンセット」が原子を捕まえる。量子制御ユニットは原子を冷却して配列へ載せ、必要に応じて並べ替える。マイクロ波とレーザー光で量子ゲートを操作した後、原子1個ずつの蛍光をカメラで撮影し、計算結果を読み出す。フルスタックという呼び名は、この入力から読み出しまでがつながっていることを指す。
ここは「米国製QPUを日本へ置いた」という説明では足りない。InfleqtionのQPUを中核に据えながら、分子研と日立が制御・運用・ソフトウェアを組み合わせた共同開発である。第2期で日立はシステム性能評価ソフトウェアも開発し、実機の設計や運用方針の検討に参加する。春海を継続的に測り、改良する仕組みまで国内の研究計画に組み込まれている。
原子を動かしてつなぐ、中性原子方式の強み
中性原子方式では、電荷を持たない原子1個を1量子ビットとして使う。同一種の原子は性質がそろっており、人工的に製造する量子ビットと比べて素子ごとのばらつきが生じにくい。光ピンセットを動かせば、計算途中でも原子の配置を変えられる。離れていた量子ビットを近づけて相互作用させ、アルゴリズムに合わせて接続関係を組み替えられる点が特徴だ。
量子ゲートでは、原子を高いエネルギーのリュードベリ状態へ励起し、近接する原子との強い相互作用を利用する。固定配線の制約を減らせるため、誤り訂正に合わせて量子ビットの接続関係を設計しやすい。ただし、原子を自由に動かせることと、高精度な演算を長時間続けられることは同義ではない。実機ではレーザーを安定させ、ゲート操作から読み出しまで複数の性能を同時に保つ必要がある。
「室温動作」にも注意が要る。超伝導方式のような巨大な希釈冷凍機は不要だが、原子はレーザーで冷却し、真空容器の中へ閉じ込める。レーザー光源や光学系、制御電子機器も欠かせない。室温で動くのは装置全体の環境であり、冷却工程そのものが消えるわけではない。
第1期の成果は、統合前にどこまで要素技術を積み上げていたかを示す。チームはイッテルビウム原子の励起に使う波長325nmの高出力光源を構築し、量子ビットの検出忠実度99%以上を記録した。核スピンが量子情報を保つ時間は、1量子ビットゲートの操作時間の100万倍以上だった。ルビジウム原子では800個の光ピンセットを整形・均一化して自動運転し、量子ビットを壊さず状態を測る非破壊測定も原理検証まで進めている。
ただし、99%以上という数字は要素実験の「検出忠実度」であり、春海の量子ゲートが99%以上の精度で動くという意味ではない。今回の発表は、1量子ビットと2量子ビットのゲート忠実度、実行できる回路の深さ、連続稼働率、計算ベンチマークを公表していない。稼働開始は統合の達成であり、誤り耐性や量子優位性の実証はこれからだ。
50、500、1万は別の時間軸
発表に並ぶ三つの規模は、現在と次の改修、長期目標を表す。混ぜて読むと、春海がすでに1万量子ビットで動いているかのような誤解を招く。
| 段階 | 量子ビット規模 | 状態・目標 |
|---|---|---|
| 稼働開始時 | 約50量子ビット | 初期段階で使用する規模 |
| システム拡張 | 約500量子ビット | 今後、同システムで拡張する計画 |
| 2030年度まで | 1万物理量子ビット | 外部利用可能な誤り検出・訂正機能を備える目標 |
量子ビットを10倍、200倍に増やしても、計算能力が同じ比率で伸びるとは限らない。意味を持つのは、何個を同時に初期化し、どの精度でゲートをかけ、途中のエラーを検出・訂正しながら論理量子ビットとして使えるかである。分子研は、春海が初期段階で実際に同時制御する正確な個数や原子種も今回の発表では示していない。
JSTが掲げる途中のマイルストーンは、規模より機能へ踏み込む。2028年までに量子誤り訂正の有効性を実証し、プロジェクト内の外部利用者が実機で量子回路を動かす。2030年までには論理量子ビット上で汎用的なゲート一式を実現し、プロジェクト外の利用者が論理量子回路を実行する計画だ。1万という物理量子ビット数は、その機能を伴って初めて研究上の意味を持つ。
国内最大ではない。産総研の260量子ビット機との違い
日本には、春海より多い量子ビットを持つ中性原子機がすでにある。産業技術総合研究所の量子・古典融合基盤「ABCI-Q」は、米QuEra製の「システムQ」を運用している。ルビジウム87を使う260物理量子ビット機で、GPUスーパーコンピュータ「システムH」と専用回線で接続され、同じ基盤には超伝導量子コンピュータなども置かれている。
| システム | 初期・公称規模 | 主な狙い |
|---|---|---|
| 分子研「春海」 | 約50量子ビット | 国内でフルスタックを統合し、誤り訂正と装置高度化を研究 |
| 産総研ABCI-Q「システムQ」 | 260物理量子ビット | 複数方式とGPUを組み合わせ、応用・ユースケースを開拓 |
したがって、春海の価値は国内最多の量子ビット数では測れない。ABCI-Qが複数の計算資源を使い分ける共用基盤を目指すのに対し、春海は一つの中性原子機を上から下まで作り込み、誤り訂正や長時間運用のために各層を一緒に改良する。その統合能力が今回の新しさである。
外部利用までに何を示せるか
春海は今後、外部ユーザーへ一部を開放し、アプリケーションと量子誤り訂正の開発に使う計画である。分子研は利用例として、理論・ソフトウェア研究者による誤り訂正技術の開発や、企業研究者による実用的な応用を挙げる。大森教授が創業者兼エグゼクティブアドバイザーを務めるYaqumoとも、社会実装と装置の高度化で連携する。分子研は既存の共同利用スパコンと春海を組み合わせ、量子・GPUハイブリッド計算センターへ発展させる構想にも言及した。
外部利用をいつ始め、誰を対象とするのかは未公表で、料金と申請条件も示されていない。研究者が実機を触れるようになれば、量子ビット数より厳しい評価が始まる。利用可能時間のうち実際に計算できる割合、ジョブが待たされる時間、校正の頻度、回路を繰り返したときの再現性が、研究基盤としての使いやすさを決めるからだ。
春海は、部品ができた段階から、統合した装置を運転して欠点を洗い出す段階へ移った。まず2028年までに、未公表のゲート性能と稼働率を引き上げ、誤り訂正の有効性を実機で示せるかが試される。その先の2030年には、プロジェクト外の利用者が論理量子回路を実行できて初めて、日本でフルスタックを持つ意味が量子計算の成績として表れる。
