440億ドル(約7兆円)──。韓国の巨人、Samsung Electronics(以下、Samsung)が米国の半導体覇権復活の象徴としてテキサス州テイラーに投じる、まさに天文学的な金額である。しかし、その巨大プロジェクトが今、「顧客がいない」という、にわかには信じがたい理由で暗礁に乗り上げている。Nikkei Asiaが伝えるこの衝撃的な事実が物語る物は、技術進化の非情な速度、絶対王者TSMCとの埋めがたい差、そして米国の国家戦略が抱える構造的な課題までもを浮き彫りにする、現代半導体産業の縮図そのものだ。
「プロセスは遅れている。なぜなら顧客がいないからだ」
衝撃的な内部事情を最初に報じたのは、Nikkei Asiaだ。匿名の情報筋は「(テイラー工場の完成)プロセスは遅れている。なぜなら顧客がいないからだ。(Samsungは)現時点で設備を搬入しても、何もできる状況にない」と語っている。この証言は、建設が90%以上完了しているにもかかわらず、工場が「開店休業」状態に陥るリスクを示唆している。
問題の根源は、技術の急速な陳腐化にある。
当初、このテイラー工場はSamsungの「4nm(ナノメートル)」プロセスを主力に据える計画だった。しかし、工場の計画から建設が進行する数年の間に、市場の需要はより微細で高性能なプロセスへとシフトしてしまった。あるサプライチェーン幹部は「数年前に計画されたプロセスノードは、もはや現在の顧客ニーズを満たしていない」と指摘する。
半導体業界は、巨額の先行投資が不可欠なビジネスモデルである。しかし、その投資が実を結ぶ前に技術トレンドが変わってしまえば、全てが水泡に帰すリスクと常に隣り合わせだ。Samsungは需要の変化に対応すべく、計画をより高度な「2nm」プロセスにアップグレードする方針を打ち出している。だが、これは「工場の設計を根本から見直す、大規模でコストのかかる事業」(同幹部)であり、同社が「当面は様子見のアプローチ」を取らざるを得ない状況を生み出している。
CHIPS法の光と影:440億ドルのジレンマ
このプロジェクトは、単にSamsungの経営判断だけで進められてきたわけではない。背後には、米国の半導体サプライチェーン国内回帰を目指す前Biden政権の強力な後押しがある。
Samsungは当初170億ドルだった投資額を、2024年には新たな先端工場と研究開発(R&D)拠点の追加により440億ドルへと倍増させた。この巨大投資を支えるのが、米国政府による「CHIPS and Science Act(CHIPS法)」に基づく最大66億ドル(約1兆円)の補助金だ。
しかし、この補助金はSamsungにとって諸刃の剣となっている。資金を受け取るためには、工場を稼働させ、米国内で先端半導体を生産するという公約を果たさなければならない。つまり、顧客がいないからといって無期限に計画を塩漬けにすることはできず、2026年までの稼働開始という目標を維持せざるを得ないのだ。
顧客不在のまま無理に稼働させれば、巨額の赤字を垂れ流すことになる。かといって稼働を遅らせれば、補助金を失うだけでなく、すでに投じた数十億ドルの投資が無駄になるリスクに直面する。まさに「進むも地獄、退くも地獄」という戦略的なジレンマに陥っているのである。
絶対王者TSMCとの埋めがたい差
Samsungの苦境を一層際立たせているのが、ファウンドリ(半導体受託製造)市場の絶対王者、台湾積体電路製造 (TSMC)の存在だ。
奇しくもTSMCもまた、CHIPS法の支援を受け、アリゾナ州に先端工場を建設している。しかしその状況は、Samsungとは対照的だ。TSMCのアリゾナ工場(Fab 21)は、すでに4nmプロセスでのチップ生産を開始。Apple、AMD、NVIDIA、Qualcommといった米国の巨大テック企業を顧客としてがっちり確保し、その生産能力は2027年まで完売状態にあると報じられている。
市場調査会社TrendForceによれば、2025年第1四半期のファウンドリ市場における収益シェアは、TSMCが67.6%という圧倒的な地位を占める一方、Samsungは7.7%と2位ながらも大きく水をあけられている。
この差は、単なる技術力の優劣だけでは説明できない。筆者は、これはビジネスモデルとエコシステム構築力の差であると考える。TSMCは単に半導体を製造するだけでなく、顧客との長期的な信頼関係に基づき、設計から製造までをサポートする強力なエコシステムを築き上げてきた。顧客はTSMCに依頼すれば、高い品質(歩留まり)と納期遵守が保証されるという「安心感」を買っているのだ。
一方のSamsungは、長年にわたりファウンドリ事業における歩留まりの不安定さが指摘されてきた。これが、AppleやNVIDIAのような最先端チップを大量に必要とする巨大顧客が、リスクを取ってSamsungに乗り換えることを躊躇させる最大の要因、いわばSamsungの長年の「アキレス腱」となっているのだ。
グローバルな逆風と岐路に立つ国家戦略
Samsungが直面しているのは、内部的な課題だけではない。AIやデータセンター向けの需要は堅調なものの、スマートフォンやPCといった消費者向け市場の回復は鈍い。さらに、米国の対中半導体規制は、Samsungのようなグローバル企業にとって巨大な中国市場へのアクセスを困難にし、工場全体の稼働率を押し下げる要因となっている。
このテキサス工場の一件は、Samsungという一企業の未来だけでなく、米国の半導体国家戦略そのものに大きな問いを投げかけている。
CHIPS法は、地政学的リスクを背景に、半導体の重要サプライチェーンを米国内に取り戻すという壮大な目標を掲げている。しかし、いくら巨額の補助金で工場を誘致しても、そこで生産される製品に市場競争力がなければ、サプライチェーンは持続可能にならない。ビジネスとしての採算性、顧客からの需要、そしてグローバルな競争力という、経済の基本原則を無視して、地政学的な動機だけで産業を再構築することの難しさを、サムスンのケースは痛烈に示しているのではないだろうか。
Samsungは2026年の工場稼働を目指し、プロジェクトは順調に進んでいると主張する。しかし、水面下では主要顧客の獲得に奔走しているはずだ。この苦境を乗り越え、TSMCの牙城に一矢報いることができるのか。それとも、巨額投資は「壮大な失敗」として記憶されることになるのか。テキサスの広大な土地で建設が進む巨大工場は今、Samsungと米国の半導体戦略、その両方の未来を占う試金石として、静かに岐路に立っている。
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