2026年5月、韓国・京畿道平澤市にあるSamsung Electronicsの半導体工場の周辺では、数万人の労働者がプラカードを掲げてデモ行進を繰り広げていた。同時刻、約70キロメートル北東に位置するSK hynixの利川(イチョン)本社では、別の風景が展開されていた。結婚相談所のコンサルタントたちが「SK hynix社員は今や無条件でAランク」と語り、当の社員たちは「社内婚を真剣に検討している」とつぶやく。
両社はどちらも韓国半導体産業の旗手であり、世界DRAMシェアの上位二社だ。しかしAIブームが本格化した2025年以降、両者の軌跡は同じ産業地図の上で鮮やかに分岐しつつある。その断層を可視化したのが、「ボーナス」という一見シンプルな報酬制度の差異だった。
SK hynixが設定した「新しい基準」
SK hynixが2025年に導入したボーナス体系は、韓国の財閥文化における前例のない試みだった。同社は営業利益の10%を労働組合との合意のもとボーナスプールに拠出する制度を採用し、さらに従来のボーナス上限(月額給与の何倍まで、という制約)を10年間撤廃した。
その経済的インパクトは壮大だ。2026年Q1にSK hynixが計上した営業利益は37.61兆ウォン(約3兆9,880億円)で、コンセンサス予想を上回る水準だった。10%ルールに従えば、30,000人超の従業員が受け取るボーナスプールは3.7兆ウォン、約3,980億円にのぼる。さらにMacquarie Securitiesの試算では、2027年には同社の営業利益が447兆ウォン(47兆円)に達する可能性があり、この場合の一人当たりボーナスは平均12億9,000万ウォン(約1億3,600万円)になる計算だ。
韓国の結婚仲介業者GayeonのマネージャーKang Eun-sun氏が象徴的な証言を残している。「以前はSK hynix社員をBプラス程度の相手と組み合わせていたが、今や無条件でAランク」。一部の社員は合コンの場で「Samsung勤務」と偽り、相手が好印象なら本当の職場を明かすと匿名で告白している。AIブーム以前に「Samsung男」が最上位の職業的威光を持っていた韓国社会の基準が、静かに書き換えられている。
SK hynixの好業績を支えるのは、HBM(High Bandwidth Memory)市場での先行者優位だ。AI推論・学習用GPUに不可欠なHBM3Eの供給において、SK hynixはNVIDIAとの深い協業関係を築いており、AI向けサーバーDRAM全体の需要増を最大限に取り込んでいる。
Samsungを蝕む三重の危機
これに対してSamsungが直面している状況は、表面上の「AI特需の恩恵」という単純な図式で説明できるものではない。三つの独立した亀裂が同時に走っており、それぞれが他の亀裂を深める構造になっている。
最初の亀裂は2024年に入ってから顕在化した。HBMの開発競争でSK Hynixに後れを取ったSamsungは、技術的なリカバリーに苦心している間に、ライバルが先行して主要顧客との契約を積み上げた。Counterpoint Researchによれば、Samsung ElectronicsはQ4 2025のグローバルDRAM市場で36%のシェアを記録し、32%のSK hynixをわずかに上回って首位に返り咲いた。だが、それはあくまで汎用DRAMの生産増強によるもので、付加価値の高いHBMセグメントにおける競争優位は依然としてSK hynixが握っている。
第二の亀裂は、社内分断だ。Reutersが入手した社内賃金交渉の議事録と10名以上の従業員へのインタビューによれば、Samsung ElectronicsのDevice Solutions部門(DS部門)は、メモリ事業(DRAM/NAND)と、ロジックチップ設計・製造(System LSI・ファウンドリ)の間で深刻な摩擦を抱えている。
Samsungのメモリ部門はAI特需で記録的な利益を上げる一方、ファウンドリ・System LSI部門はここ数年、数兆ウォン規模の損失を計上し続けた。2026年3月の賃金交渉で会社側はメモリ従業員に年収の607%に相当するボーナス(SK hynixを超える水準)を提示したが、ロジックチップ従業員には50%〜100%にとどめる案を示した。
この提案に組合側は猛反発した。「メモリが5億ウォンでファウンドリが8,000万ウォンなら、後者の社員は何のモチベーションで働くのか」——交渉の議事録に残る組合リーダー、Choi Seung-ho氏の言葉だ。実際に、平澤キャンパスのあるファウンドリエンジニアは、チームがここ数年で大幅に縮小したと証言している。同僚の多くがSamsungのメモリ部門やSK hynixへと転職していったというのだ。
そして第三の亀裂が、この記事の直接的な背景となる「ストライキ」だ。前二者が慢性的な病変だとすれば、ストライキは急性症状に相当する——しかしその根は同じ土壌に深く張っている。
18日間のストが意味する地政学的コスト
Samsung Electronics最大の組合による18日間のストライキは2026年5月21日に開始予定で、本稿執筆時点(5月18日)でも回避のメドは立っていない。すでに45,000人超の労働者が参加を表明しており、DS部門全体の従業員の半数超に相当する。
Samsungは生産中断の損害を最小化するため、ストライキの約6日前からウォームダウン(warm-down)作業を開始した。具体的には、新規ウェハーの投入を絞り、露光・エッチング・洗浄工程の装置をスタンバイモードに移行させると同時に、生産品目をHBMや先端ノードの高付加価値チップに絞る対応を取っている。
しかし、ウォームダウン自体がすでに損失を生んでいる。Seoul Economic Dailyは生産ラインが完全停止した場合の1日あたりの損失を3兆ウォン(約3,000億円)と試算。18日間のストに加え、KB SecuritiesのアナリストKim Dong-won氏はストライキ終了後の自動化ラインの再起動・安定化に2〜3週間が必要と見積もっており、総計で6週間超の生産減少期間が生じる恐れがある。JPMorganは影響範囲を最大43兆ウォン(約4兆3,000億円)と試算し、市場調査会社TrendForceはグローバルDRAM供給の3〜4%、NAND供給の2〜3%が影響を受けると予測する。
最悪シナリオでの損失総額(直接・間接合算)は100兆ウォン、約10兆円という試算も業界から出ている。Samsung Electronics自身も、取引先への影響として「一度離れた顧客を取り戻すのは難しい」との社内認識を示している。
メモリ市場に走る亀裂——スポット価格と顧客離れ
ストライキへの懸念は、資本市場と実需市場双方に即座に波及した。2026年5月の第二週、中国市場でのDDR4スポット価格は前週比20%上昇し、8GB DDR4モジュールは18ドルまで高騰。64GB DDR5 RDIMMも月次で11%上昇の1,350ドルに達した。NANDフラッシュの下落トレンドも止まった。
より深刻なのは「顧客の心理的離反」だ。AI向けデータセンター向けに大量のHBMと高容量サーバーDRAMを積み上げるこの時期、Samsungが供給不確実性を露呈することは、顧客がSK HynixやMicronへと調達先をシフトさせる格好の口実となる。
Omdiaのデータによれば、2026年のSamsung ElectronicsのDRAM生産量は約817万5,000枚(ウェハー換算)で、SK hynix(639万枚)を27.9%上回り、Micron(360万枚)の2.27倍にあたる。しかし仮にストによって約1ヶ月の生産停止と復旧作業が生じれば、68万枚分のウェハー生産が失われ、SK Hynixとの差は急速に縮まる。
さらに、Samsungの年間DRAM生産量はすでに全量が前払契約(sold out)済みとされており、仮に供給が遅延すれば顧客への納期違反が直接的に発生する。Samsungにとって、これはDRAMの価格交渉力という短期的な問題ではなく、AI時代における信頼資産の毀損という中長期の危機だ。
ボーナス制度が火をつけた「韓国型利益分配」論争
この局面が持つもう一つの意味は、SK hynixの10%ルールが設定した「新しい業界規範」が想定外の連鎖を引き起こしているという点だ。一企業の報酬改革が、産業横断的な分配圧力として韓国全体に伝播しているからである。
Korea JoongAng Dailyが伝えるように、Samsung Electronics組合をはじめ、Samsung Biologics組合(20%要求)やLG U+組合(30%要求)、Kakao組合(10%要求オプション)など、ICT・医薬品といった多分野の組合がSK Hynix方式を参照し、同様の利益分配を要求し始めている。
Sogang大学名誉教授のLim Chae-un氏は警告する。「一度組合が営業利益のケーキに手を伸ばし始めると、次は株主、さらには下請け企業へとその争いが広がる」。さらに、Blue House(大統領府)の政策責任者であるKim Yong-beom氏は、SamsungとSK Hynixが得た記録的な利益は「数十年にわたり国民全体が構築した産業基盤の上に成り立っている」として、利益を国民に還元する「公共配当(public dividend)」制度の創設を提言した。
フランスは1967年から法定の利益分配スキームを設け、メキシコも企業利益の10%を従業員に配分する制度を持つ。だが、それらは純利益や特定の計算式に基づくものであり、組合が交渉によって営業利益の一定割合を確保するSK Hynix方式は国際的にも異例のモデルだ。この制度が韓国全体に波及すれば、研究開発投資の圧縮や市場サイクルに依存したコスト構造の固定化というリスクが産業全体を覆う可能性がある。
AI時代の「勝者」と「敗者」を分けるもの
市場は冷酷にそのスコアを更新し続けている。2020年代初頭の投資判断の差が、2026年の時点で報酬・人材・顧客信頼という三方向の格差として具現化しているのだ。
SK hynixが2025〜2026年に享受しているアドバンテージは、2020〜2021年頃からのHBM開発への集中投資と、Nvidiaとの深いサプライチェーン統合の賜物だ。一方のSamsungは、当時ロジックチップ事業(ファウンドリ・System LSI)の強化という「総合半導体企業」路線の一環としてHBMへの資源配分を抑制した。その判断の結果が、今まさに利益格差、報酬格差、人材格差、そして労使関係の激化という形で一気に噴出している。
Jay Y. Lee(李在鎔)会長は「2030年までにロジックチップで明確な世界No.1を目指す」と宣言している。だがその目標を実現するための人材が、より高い報酬を求めてSK Hynixへと流れ出ている現実は、構造的なジレンマだ。ストライキが終結したとしても、ファウンドリ部門の人材流出という出血を止めることはすぐには難しい。
ソウル市立大学の経済学教授Song Hong-jae氏は、このストの本質的なリスクを「信頼資産の消滅」「スイッチングコストによる永続的な市場喪失」「AI半導体覇権レースにおける機会費用の損失」「中核人材の離脱」「コリアディスカウントの深化」という5点に整理している。
SK hynixとSamsungの分岐は、二つの個別企業にとどまらない広範な影響を孕んでいる。AI時代において、誰がコンピューティングの基盤インフラを担うのか——それを決定する産業的・地政学的な問いに直結しているからだ。その答えは、工場の稼働率よりも先に、人材とインセンティブの設計において出されつつある。